フキダシ係って何なんだろうなーとずっと思っていた。
マンガ「じょしらく」(漫画:ヤス/原作:久米田康治)において、久米田康治は一貫して自分の役割を「フキダシ係」と表現している。「さよなら絶望先生」(久米田康治)最終巻である30巻の巻末では「吹き出しのアルバイト」とまで書いている。
それはもちろんジョークだったり、照れ隠しの意味もあるだろう。だが、一方でそれはきっと久米田の美学なのだと思う。
久米田康治という作家は、「かってに改造」のある時期以降、限りなくコラムニストに近いマンガ家になった。時事ネタ・パロディ・風刺を駆使した会話劇というスタイルは、ある意味ではキャラクター不在でもできる。ボケる担当、ツッコミ担当、虐殺オチ担当といった役割としてのキャラクターさえいれば成立するからだ。つまり、物語をほとんど必要としてないのだ。
「さよなら絶望先生」は、そういう「かってに改造」のスタイルのひとつの完成形といえる。自虐、狂気、狂言回しなどなど、さまざまな切り口のキャラクターを用意して、毎回テーマごとにコント的コラムを展開するスタイルが前作以上に合理的に確立されている。
だからこそ、「じょしらく」の“フキダシ役”という自称は不思議だった。楽屋での会話劇というスタイルは、誰がどう見ても久米田康治そのものだ。光る切り口、予想もしない会話の展開……絵すら描かずに久米田ワールドを展開する「じょしらく」は、ある意味コラムニストとしての久米田康治の真骨頂ともいえる。
だが、「さよなら絶望先生」の最終回に辿り着いたとき、「なるほど、確かに『じょしらく』の久米田康治はフキダシ係なのかもしれないな」と思った。
「絶望先生」のラストの展開については、連載当時からマンガブログ界隈などでも大きな話題を呼んでおり、すでに十分な検証と解説がなされているので、ここでは詳細には触れない。重要なのは、基本的に時事コラムであった本作が、最終回に向かうラスト数回で、まるで上質なミステリーのように連載初期からの伏線をきれいに回収し、「物語」としての結末に向かっていったという点だ。
コラム的コントである「絶望先生」は、本来そんな大仰な物語としてのラストを必要としていない。当たり前のように「絶望した!! アニメも終わって旬を過ぎた作品をあっさり切り捨てる週刊雑誌に絶望した!!」みたいなネタをやって終わったっていいのだ。むしろそれこそがスタンダードだろう。
だが、久米田康治はそれを選ばなかった。
「絶望先生」のラストは、パロディや風刺的な意味合いも強く、極めて批評的な側面を持っている。だが、同時にきっちりと物語として完結している。物語として読者を泣かせるものになっている。
ある意味では役割を果たすコマでしかなかったはずのキャラクターに、最後になって背景と内面を与え、ご都合主義的であったギャグ世界観を、ミステリーのようにシリアスな世界に組み替えた。「かってに改造」の最終回で見せた手法をより高度に引き継ぎ、完成させている。
読者とアッといわせたいとか、度肝を抜きたいという気持ちでもあるんだろうが、僕の目にはそれはマンガであろうとする意志のようにも見える。世界とキャラクターを作り上げ、きちんと物語として閉じていく。コラムでなく、マンガであるためにはそれが必要なのだ。
「じょしらく」に対して久米田康治が自分のことをフキダシ係と呼ぶのはきっと一種の美学だ。
コミックナタリーに掲載された久米田康治のインタビューを読んでも、(単にはぐらかしているようにも見えるが)「じょしらく」ではキャラクターの設定などにも深くは踏み込まず、徹底的に“コラム”的な部分だけに集中するスタンスが見えてくる。
つまり、久米田康治はおそらく「じょしらく」の“お話”そのものには関わっても、その世界全体をコントロールすることを放棄している。そういう何かではないと自覚している。それは久米田にとっては「マンガの原作」ではないのだ。
誰よりもコラムニスト的なスタイルを得意とする久米田康治は、同時に断じてコラムではないスタイルを常に貫いている。「さよなら絶望先生」のラストの美しさは、そういう矜恃や美学が生んだものなのではないかと、一読者である僕は思ってしまうのだ。
7年間の連載と、その見事な「大往生」に祝福と讃辞を送りたい。
(本作は全30巻完結です)
記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。この時期になると毎年スピッツの「夏が終わる」を聞きます。仕事のご相談とか承っていますので、お問い合わせかTwitterでお気軽にどうぞ。Twitterアカウントは@frog88。
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