「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」。かつて岡崎京子が「リバーズ・エッジ」という作品で引用したそんな詩の一節は、彼女の作品世界と時代を象徴する言葉のひとつとなり、ぼくらを熱狂させた。
高度経済成長が終わりを迎え、豊かではあるけれど、「今日より明日」ではなく、「永遠に変わることのない今日」を消費財となった娯楽や恋愛で埋め合わせるしかなくなった、80年代末から90年代の奇妙な閉塞感をこのフレーズは的確に捉えていた。つまり、恋も娯楽も簡単に手に入るけれど、簡単に手に入るがゆえに陳腐化し、輝かしさを失ってしまったというのが、当時の気分だったのだ。
高校生たちを主人公にした寓話的オムニバス「ワールドゲイズ クリップス」(五十嵐藍)には、そんなかつての岡崎京子の匂いが漂っている。
ごく当たり前に友だちや恋人がいたりする本作の登場人物たちは、どちらかといえば“リア充”側の人間であり、冗談めかして「おっぱい見る?」なんていわれたりする話だってある。“非リア(非リア充)”層からすれば、憎むべき人種だといっていいだろう。だが、彼らはみな、充実しているどころか、生活や人生に空虚さを感じている。彼ら、彼女らは、生活に小さな不満や退屈さを感じながら、「どうせ劇的に変わりはしない」とどこかで諦念を抱えている。人間関係にしても、実際にクラスから浮いたりはしていないが、心情としては“ぼっち”に近い。
それが今の若い世代にとってどれくらい生々しいものなのかは、中年にさしかかっている僕にはわからないが、ここには「平坦な戦場」に象徴される、かつての閉塞感に似た感覚がある。インスタントに手に入る友情も恋も、青春も、便利だけれど、輝かしさは失っている。かといって、彼らにはどうしても今の自分を打開したいという情熱もない。緩やかに死んでいく自分たちの姿を、彼らはぼんやりと眺めているのだ。
だが、本作には空虚さと同時に、かつての岡崎京子作品にはなかった、かすかな救いの匂いが示されている。ただし、それは将来の夢や激しい恋といった、日常を一変させる輝かしい何かとの出会いではない。あくまで彼女たちの日常は変わりはしない。
「ワールドゲイズ クリップス」で描かれる救いは、ミニマムな人間関係だ。世界は変わらず、情熱的な恋や熱い友情はうさんくさい。だが、そんな感覚や秘密を、そっと共有する相手が存在することで、彼女たちはわずかに救われる。インスタントな充実を信じない“平坦な戦場”の子どもたちは、何の変哲もないけれど、自分だけの友情や関係を手に入れることで、再び日常を生き抜く力を手に入れるのだ。
(このレビューは第1巻時点のものです)
記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。最近、ヘッドホンを替えました。あと、タバコを軽いのに変えたりもしました。Twitterアカウントは@frog88。
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ワールドゲイズ クリップス|五十嵐藍
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