編集長・小林が何となくマンガ周辺を語るゆるゆるコラム。今週は、いい加減触れておかないといけないTPPの話を。
さて、TPPだ。いまだに「TPP」といおうとして「TPO」とか「TKO」とか「TDK」とかと間違えてしまう僕が、今さら周回遅れのランナーのようにTPP問題に首を突っ込むこと自体、割と滑稽だなと思っているわけだけど、それでもこのタイミングでいったん整理しておかないとなと思うことが多かったりする。
もちろんこのサイトで扱うのは、農業だの何だのといったジャンルの話ではない。毎度おなじみ著作権の問題、特に今回は著作権の非親告罪化問題だ。
そもそも著作権の非親告罪化というのがどういうもので、どんなリスクを負っているのかという問題については、すでにいろいろな人がいろいろな形で触れている。とりあえず、ざっくりどんなことが起こりそうかについては、赤松健先生がわかりやすく解説、シミュレーションしているので、そちらを参照してもらうのが早いだろう。
僕個人としても、著作権の非親告罪化というのは、害の部分はいくらでも思いつくのだけれども、利の部分があまり見えてこない。膨大な権利関係を管理している企業が、著作権侵害コンテンツに対応する手間暇をカットできそうというようなところが一番大きなメリットだろうか? ただ、それにしたって、少なくともマンガ関連にしてみれば、同人誌を始めとした、いわゆる権利的に「グレー」とされている産業と一体となって市場を作っている側面がある。このあたりを正面切って、著作権という錦の御旗が杓子定規にぶった切っていけば、同人市場の受けるダメージは計り知れないだろう。委託販売を行っている書店などを含め、いくつかの産業がシュリンクに向かっていくのではないかと思う。
こういうような話をすると、商業誌しか読まない人は直接的なリスクを感じなかったりするのだけれども、ことマンガに関しては、すでに同人誌というのが、産業システムの中に組み込まれている。簡単にいえば、同人誌文化は、日本の「絵を描ける人間」「マンガを描ける人間」の絶対数を底上げする役目を担っており、ご存知のとおり、同人界隈は商業マンガにとって重要な人材発掘場所にもなっている。同人誌のダメージは、おそらく確実に日本のマンガ全体にとってのダメージになるはずだ。
そもそも、法解釈がどう位置づけているのかわからないのだけれど、非親告罪化というのは、著作権にとっていびつな仕組みであるんじゃないかと思う。
著作権というのは、基本的に攻撃的権利であるべきではないというのが僕の考えだ。肖像権などもそうだけれど、著作権は「自身が持つ権利を自分自身でコントロールするためのもの」だ。この「自分自身でコントロール」というのが重要で、要するに自動的に発動する絶対不可侵なる権利となってしまうと、「権利者が望まない範囲まで権利の力が及んでしまう」という現実を呼び込む。
非親告罪というのはまさにそれで、黙認がもっとも理想的な関係だと思っているときに、権利者の意志を超えて発動してしまうという事態を引き起こす。これは、ある意味では権利者が自分の権利をコントロールできなくなった状態といえる。非親告罪化は、著作権という権利自体を肥大化させる一方で、権利者のコントロール権を弱体化させる仕組みなんじゃないかと思うのだ。少なくとも、僕は僕の著作物関連の権利について、僕をそっちのけにして訴訟対象になっていたら、それが一番不愉快だ。
この問題に限らないことだが、ここのところ、著作権はモンスター化しているという感覚がある。日本のコンテンツ産業において、権利関係などの法整備、商習慣が未熟であるという側面はあるにせよ、一方で著作権は厳密化すればするほど、市場の可能性を狭めていく。簡単にいえば、住みづらい社会を作っていく。「厳密にいえば違法である」ということはいくらでもある。だけど、それを厳しく咎めていくというのは、自分自身にも厳密な正しさを強要することにもなる。ほかの人がどう考えているかはわからないけれど、僕個人は適切な「まぁ、いいでしょ」が許されない社会は地獄だと思っている。
それは、「この中で罪を犯したことがない者だけが、この女に石を投げなさい」というキリストの言葉の意味と同じだ。聖人君子以外生き延びることができない社会を多くの人が望むのであれば、もはや何もいうことはないのだけれども、おおむね人というのは、致命的でない程度の脛の傷を抱えているものなのだ。だから、そういうふうに他人を、社会規範を、少しずつ許し続けなければ、必ず自分の首を自分で絞めることになる。
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