匿名の世界に名前が付くとき――「コミック星新一 親しげな悪魔」(石黒正数・渡辺ペコ・道満晴明・白井弓子ほか)


小説のコミカライズはいまやそれほど珍しいことではない。小説は読まなくてもマンガなら読むという人もいるだろうし、原作の世界をビジュアライズされた形で見てみたいと思う人も多いだろう。

ただ、星新一のコミカライズというのはちょっと特別だ。

“ショートショートの神様”と呼ばれた星新一は生涯を通して1000編以上のSF短篇を残している。そのどれもがとびきりの着想に満ちており、今改めて読んでも思わず膝を打ってしまう。ちっとも古びないのだ。

そういうアイディアの鮮やかさが、星新一の“古びなさ”を作るの最大の要因であるのは間違いないが、もうひとつ大きいのは、その世界の匿名性だ。

読んだことのある人ならよく知っているように、星新一のショートショートにはほとんど固有名詞が出てこない。登場人物たちも基本的に“N氏”とか“エフ博士”といった記号的な名前しかついていない。生々しい手触りをあえて排除することで、星新一の世界はいつ読んでも“今ここ、あるいは知っている過去ではないどこか”に読み手を運ぶ力を手に入れている。

「コミック星新一」シリーズは、そんな星新一の作品をさまざまなマンガ家がコミカライズする作品集だ。「コミック星新一 親しげな悪魔」では、石黒正数、渡辺ペコ、道満晴明、白井弓子、鈴木志保、武嶌波、KUJIRA、青木俊直、西村ツチカ、奈々巻かなこと、そうそうたる面々が参加している。

このコミカライズは、星新一の作った匿名の世界に名前を与える行為に似ている。N氏に、エフ博士に肉体、顔が与えられる。名前こそ匿名的でも、顔や体、服装は年齢や経済状態や生き様、信条を浮き彫りにする。

そして何より表情が与えられる。星新一の極めて淡々とした文体は、読者をポンと突き放すような感覚がある。たとえば作中で人類が滅びようと、恐ろしさと同時にどこかでよくできたジョークのような印象が残ったりする。

だが、「コミック星新一」ではそういう不思議な読後感が、生々しく生まれ変わっている。登場人物たちはさまざまな表情を見せ、中立的なイメージの原作を、ある人は恐ろしく、ある人はよりコミカルに解釈して再構成して提示してくれる。そこには、物語を読んでいるのと同時に、星新一作品について感想を語り合っているような楽しさがある。

また、「親しげな悪魔」の収録作でいえば、「意気投合」をコミカライズした青木俊直などは、おそらくその匿名性をそのまま再現しようとしている。笑っていいのか、絶望すべきなのか、何ともいえない読後感をそのまま提示することに注力している。その手腕やスタンスも原作ファンにとっては思わずニヤッとしてしまうものがある。

星新一の匿名性をコミカライズするのは、ただ作品をマンガにするだけでなく、そういう新たなスタンスや切り口を、普通の作品以上に明確に見つけなくてはならない難しい行為だ。だが、それだけに“名前の付いた”作品を読む楽しさも、普通のコミカライズとは段違いなのだ。

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。寝室のクーラーが壊れたので、寝るときは窓を開けていたんですが、おかげで寝室側のマンガが湿気にやられつつあります。Twitterアカウントは@frog88

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