「結婚は人生の墓場」なんて言葉があるけれど、ある年齢にとって、たぶん結婚はまさに“墓場”なんだと思う。「結婚なんて最悪だ」という意味ではない。むしろ逆の意味だ。
恋愛物語における結婚は、基本的にハッピーエンドの象徴であり、永遠の愛が約束される瞬間だ。いわば、恋愛の最終形態としての役割を持っている。
だけど、30代に入る頃には、結婚は響きが変わってくる。結婚は老い支度であり、死に支度だ。
「娚の一生」(西炯子)4巻は、30代の主人公・つぐみと50代の大学教授・海江田の結婚後の生活を描いたスピンオフ集となっている。3巻までの段階でも、若い男女とは異なる感性で恋愛を描いていたが、「結婚」という副題が付いた本巻のエピソードでは、より世代的な感性が色濃くなっている。具体的にいえば、つぐみよりも海江田よりのエピソードが増えているのだ。
海江田は50代と、僕の年齢よりもずっと上で、同世代感があるとはいえない。しかし、海江田の感性はある意味、つぐみ以上に30代のリアルをはらんでいる。
たぶん海江田にとって、つぐみとの結婚は帰るべき場所を得ることだ。作中でもたびたび「帰る」という言葉が繰り返される。捨て子であった海江田にとって、帰るべき場所があるというのは、恋の喜びとはまったく違う安らぎだろう。そして、同時に海江田にとって帰るべき場所というのは、そう遠くないところに迫った死を看取ってくれる場所でもある。
30代の独り身である僕が、ふと考える“将来”は結婚後のことや、将来の子どものことではない。次のステージは、自分自身の老いと死だ。かつて毎日のように顔を合わせ、自分を囲んでいた友人たちはすでに結婚し、子どもを持つようになった。当然両親も自分より先にこの世を去るだろう。ある日突然死が訪れても、看取る者はいない。結婚と子どもというステージを持たない人間にとって、死は遠くにあるものではない。すでに準備された次の場所なのだ。それは、50代の海江田にとっての未来像と変わらない。
“恋”の場面では、つねに大胆で洒脱な海江田が、“家族”をめぐる文脈では、未来をめぐる話では臆病になる。それはもちろん年の差ゆえの恐れだ。きっと彼はつぐみを残して死ぬことになるだろう。「娚の一生」はつぐみの物語であると同時に、そういう海江田が許され、帰るべき場所を見つける物語でもある。
海江田の結婚は華やかなゴールや輝かしい未来の象徴ではなく、すでにして晩年であり、墓場に近い。だけど、その墓は甘やかであたたかい。「人生の墓場」があることは、彼にとってどれほどの喜びだろうと思うのだ。
(本作は全4巻完結です)
記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。最近、某編集部に大学時代の後輩が配属されたことが発覚し、僕の黒歴史の扉が開かれました。やりづらいです。Twitterアカウントは@frog88。
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