今年度屈指の「バカの結晶」に宿った、非モテのメンタリティ——「抱かれたい道場」(中川ホメオパシー)


「抱かれたい道場」(中川ホメオパシー)は、バカ枠のマンガである。バカ枠、つまり、いい大人が真剣にバカバカしいことをしてやろうと考え抜き、「まじめなメッセージなどビタイチ入り込ませてなるものか」という強靱な意志によって生み出された作品だ。「バカ」がもし化学物質か何かだったら、ろ過して煮詰めてできた結晶は本書の形になっているに違いない。

だから、本来この作品については、まじめに語るべきではない。それはある意味作品に対する冒涜だ。「中川ホメオパシーは早急に病院へ行くべき」とでも書いておくのが、たぶんこの作品に対するもっとも正しいレビューだと思うし、こういう狂気に対する特効薬があったら、拉致してでも彼らに飲ませなければという使命感すら覚える。

だって、抱かれたい男を養成する道場で、その教えとして「子宮に優しい殺し文句を体得しなければなりません!!!」とか絶叫される作品なのだ。しかも、殺し文句のお手本が「…おい 女…」「貴様をベッドの上で人魚にしてやる…」なのだから、「バカ」以外の何かを学ぶことはほぼ絶望的といっていい。しいていうならば、作者のあとがきと、初出一覧のページと奥付はまじめなことが書かれているので、そこから何かを学ぶことはできるかもしれない。

たとえば、奥付に入っている「本書のコピー、スキャン、デジタル化等の無断複製は著作権法上の例外を除き、禁じられています」という注釈からデジタル時代の著作権問題について考察を始めて、結果的に著作権問題の権威になり、弁護士や法学者としてバリバリに稼ぐ男となって、札束風呂で美女とウハウハという未来が待っている可能性はある。何しろ人生何が起こるかわからない。ただ、出会った弁護士に、法の世界に入ったきっかけを聞いて「『抱かれたい道場』を読んだこと」といわれたら、問答無用でほかの弁護士を探すだろう。

だから、本作についてまじめに語ることは、作品にとって何の益にもならない。のだけれど、現役の非モテとしては、このバカバカしさを他人事とは思えない部分があるのだ。

「抱かれたい道場」は、“抱かれたい男”になるために修行する男たちを描いている。あさっての方向とはいえ、その努力たるや凄まじい。だが、それが滑稽なのは、努力の方向が狂っているからではない。そこに、当の女の子がいないからだ。

本作では、道場の門弟・ノボル(25歳童貞)の憧れの子・美月ちゃんなど、女の子キャラも一応存在する。しかし、ノボルたちが彼女らと絡むことはほとんどないし、美月ちゃんがどういう子なのかがわかる描写も皆無だ。ノボルはただただ、道場の師範・舵原の教えのもと、“抱かれたい男”になるための修行を続けている。本作は事実上「男だけの世界」を描いているのだ。

モテるために努力するというのは間違いとはいえない。特に、自分に自信を持てない人間が、何らかの目標を自分に課して、達成するプロセスのなかで自信を獲得するというのは、異性にアプローチをする最初の段階で有効なやり方だ。だが、努力自体が自己目的化したとき、その努力は滑稽になる。

“女の子がいない”世界で抱かれたい男を目指す本作は、そういう非モテの滑稽なメンタリティを(おそらく意図せず)描き出している。女の子という他人に関わることでなく、まず自分を自分の理想や想像に合わせて変えていこうとする。このメンタリティのバカバカしさ、当の非モテには笑えると同時に、他人事とは思えず、考え込んでしまうところがあるのだ。たぶん、そんなことで悩むからモテないんだけど。

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。最近、明らかに自分のものではない、長い髪が自宅の床に落ちているんですが、僕のいない間に誰かがこの部屋で暮らしてるんでしょうか? Twitterアカウントは@frog88

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