かつて「全ての言葉はさよなら」と歌ったのはフリッパーズ・ギターだった。あれから20年以上たった今、「夜さん」(佐原ミズ)を読んだあとこのフレーズのことを思い出した。ただし、その言葉は初めて向き合ったときとはまったく違う重さになっていた。
フリッパーズの「全ての言葉はさよなら」は、センチメンタルだけれど、繰り返される出会いと別れのポップさがあった。一瞬の出会いの無常さと同時に、みずみずしい青春の輝きの匂いがしている。
だけど、「夜さん」にあるのは、避けようのない運命として別離の匂いだ。
物語の中心となる中学生の晨(とき)は、祖母と2人で暮らしている。お互いを慈しみあう仲のよい家族だけれど、祖母は徐々にボケ始めていて、中学生が面倒を見るのは難しくなってきている。「晨のお嫁さん見るまではしぶとく待ってるよ」と語る祖母だが、その別離は確実に近くまで忍び寄っている。
そんな晨の通う中学校へとやってきた臨時の美術教師・夜(いつや)さんは、彼と出会い、不思議な絵の力をとおして交流していくのだが、その夜さんもまた、過去に忘れがたい別離を経験しており、その想いは癒えてはいない。
もちろん、物語としては別れの話ばかりではない。だけれども、どのエピソード、登場人物も寂しさを抱えている。そして、その寂しさの根本にあるのは、どんなに大事な人とも、いつかは別れがやってくるというシンプルだけど、忘れがちな真実だ。
それは青春の別離とはまったく違う。当たり前に一緒にいる家族のような人々が、やがて、だけど遠くない未来に、永遠に消えてしまうという、埋め合わせることのできない悲しみとしての別離だ。
かけがえのない人を失う悲しみは、決して埋め合わせられない。だが、「夜さん」には、そういう別れとの向き合いかた、癒やしかたが少しずつ描かれている。
ひとつは死がいつかやってくることを忘れないこと。いつまでも続きそうな関係が、いつまでも続くわけではないことを覚えていれば、交わされる全ての言葉は「さよなら」の可能性を秘めている。だから、悔いの残らないようにしなくてはいけない。
そして、もうひとつは、失ったとき、それをただ受け止めることだ。別離を予感している晨も、悔いを残す別離を経験した夜さんも、まだその事実をうまく受け止められていない。どこかで「失いたくない」「取り戻したい」とすがり続けている。
悲劇というのは、悲しい出来事が起こることそのものではなく、それを受け入れることができなかったときに成立する。その意味で、晨と夜さんは、いまだ悲劇のまっただ中にいる。物語の結末はまだ描かれていないが、佐原ミズの繊細で優しい筆は、きっと彼らの悲劇を、別の何かに変えてくれるはずだ。
(このレビューは第1巻時点のものです)
記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。今年は取材でたくさんクリスマスイルミネーションを見ました。男2人で。Twitterアカウントは@frog88。
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