アブノーマル思春期の旗手、ふみふみこのイノセンスとは何か?――「さきくさの咲く頃」(ふみふみこ)


青春というのは、大人になる前の幸福なモラトリアムとして機能している。挫折や失敗があるにせよ、プレ大人としての自由と、子ども的なイノセンスが同居することを許される、輝かしく描かれる季節だ。だが、ふみふみこの想像力は、青春を喪失の物語としてとらえた。

「さきくさの咲く頃」(ふみふみこ)は、ある女子高生・澄花と、幼なじみの双子の姉弟の、高校最後の1年間を描いた物語だ。これまでも“男の娘”など、思春期の少し異端な性を描いてきたふみふみこらしく、本作でも澄花が覗き趣味を持っているなど、それぞれがややマイノリティな性を抱えており、3人は奇妙な三角関係で結ばれていることが徐々に明らかになっていく。

幼なじみとの関係が、いつしか恋に変わっていくというのは、思春期の恋愛物語の常道だ。セクシャリティから切り離された子どもであった自分が、男、女という性的な存在へと自意識から変化していく象徴といってもいい。だが、本作におけるその変化は、“嬉し恥ずかし”というような甘酸っぱいものとして描かれていない。彼女たちはみな、性の目覚めにほとんど戸惑っていないのだ。

普通とはちょっと違うセクシャリティを持っていることが3人の関係を複雑にしてはいるが、彼女たちはそれ自体にあまり葛藤してはおらず、静かに自分の性癖を受け入れている。だが、では3人が自分たちの性癖をポジティブにとらえ、乗り越えているかというと、そういうわけでもない。本作で描かれる恋模様は、常にどこかで悲劇の匂いを漂わせている。つまり、セクシャルマイノリティであることが彼女たちの悲劇の源泉ではないのだ。

では、澄花たちの悲劇とはいったいなんなのか? おそらく、3人の関係にセクシャリティが介入すること、それ自体がこの物語における悲劇なのだ。

「さきくさの咲く頃」では、子ども時代、最初に3人が出会ったときのことを、プロローグのように冒頭で描いているが、そこで澄花はすでに双子のひとり、暁生に触れられた肩が「じんじんする」ことを吐露している。それは一見淡い恋心だが、本作において、むしろその記憶は時限爆弾のような不穏な予言として機能している。

澄花と、双子の暁生、千夏の3人は、出会ったときから、物語の終わりまで、惹かれ合い続けている。ある意味では、最初から最後まで3人の感情はほとんど変わりがなく、お互いに大事に思い合っているように見える。だが、そうでありながら、彼女たちが「3人の子ども」から、「女2人と男1人」であることを自覚した瞬間、彼らの楽園的関係は崩壊することになる。3人いっしょに子ども時代の思い出を、楽しかった記憶として思い出しながら、それがもはや二度と戻らないものであることを自覚しているのだ。

それは、男女間の恋愛感情のもつれが友情を破壊したという意味でもない。“男女”になった瞬間、三角関係でなかったとしても、3人が3人をお互いの“一番”にしておくことが不可能になってしまう。いわば、思春期を通過し、セクシャリティを自覚した時点で、彼女たちはイノセンスを失ってしまったのだ。つまり、本作における性は、逃れることのできない呪いであり、イノセンスの対極にある人の業の象徴として描かれている。

それゆえに、「さきくさの咲く頃」は、青春譚でありながら、幸福なモラトリアムとしても機能せず、むしろ喪失の物語になっている。そして、イノセンスの喪失の物語でありながら、センシティブな彼女たちの感性は、強烈で痛々しいまでのピュアさを際立たせている。

(本作は1巻完結です)

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。年末は「どうぶつの森」で過ごします。Twitterアカウントは@frog88

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