本物の家族でないからこそ、かけがえのない瞬間がある——「箱庭へブン」(羽柴麻央)


羽柴麻央という人は、長いこと少女を描く人だった。キャラクターが実際に少女だということでもあるが、それ以上に“少女らしい繊細な感性”を描く人という印象だったということだ。

その羽柴の新作、「箱庭へブン」が、子どもから大人(+犬)まで、いろんな世代の男女が一緒に暮らす疑似家族の物語と聞いて、「どうなんだろう?」と思った。ある種のセンチメンタリズムあふれる羽柴の作品イメージと、帯にもあるような「あったか」な家族ものというのが、正直うまく結びつかなかったのだ。

だけど、読んでみると納得だった。納得というか、もうガンガンに涙腺を刺激してくる。男を描いても、大人を描いても、羽柴麻央は羽柴麻央だったのだ。

疑似家族は、なぜ“家族そのもの”ではないというのか? それは戸籍上の記載であるとか、血のつながりの問題でもあるが、そういう形のない不確かさそのものが、疑似家族の疑似たるゆえんだ。

家族は、望むと望まざるとに関わらず、一生ついて回る関係だ。少なくとも、多くの人がそう信じているし、実際にそういう関係として付き合っていく。だから、家族の距離感というのは良くも悪くも特別なものになる。

「箱庭へブン」で描かれる疑似家族は、一見家族そのもののような距離感に見える。そこでは、家族的なあたたかさ、信頼関係が描かれている。だけど、決定的に同時に家族でないことも描かれている。

彼らは、お互いをよく知っているようでいて、同時に過去についても、素性についても意外と知らないことばかりだ。そして、ひとつ屋根の下で暮らしていても、突然そこからいなくなれば、二度と会えなくなる可能性も高い。どんなに信頼があっても、彼らは“家族”が持つ呪いのような縁に担保されてはいない。

住人の突然の失踪を描く、第0話ともいうべき「アンダースタンダード」を筆頭に、「箱庭へブン」では、そういう疑似ゆえの危うさがたびたび顔を出している。

だけど、同時に疑似であるということが、この作品にかけがえのなさを与えている。家族ですら壊れることがあることを考えれば、確かなものを持たない疑似家族はもっともろい。不用意に懐に飛び込んでいけば、傷つくだけでなく、本当に関係が終わってしまうかもしれない。

そういう相手に、心の内を明かすのは、恐ろしいことだ。もちろん、それを受け入れる側にとっても困難を伴う。でも、ぶつからなければ、永遠に交わることもない。

確かなものを何ひとつ持たぬまま、それでも一緒にいるためには、繊細さと、不確かな相手にぶつかっていく蛮勇が必要になる。そして、それゆえに、ときとして本物の家族よりもあたたかく、かけがえがないものになるのだ。

「箱庭へブン」には、繊細さと勇気を両立する、羽柴麻央らしさが溢れている。あとがきを見る限り、続刊が出るのにも時間がかかりそうだが、何年でも待つ。きっと続きを出して欲しい。

(このレビューは第1巻時点のものです)

【お詫びと訂正】
記事初出時、「箱庭へブン」の「へ」がカタカナになっておりましたが、正しくは「へ」のみ平仮名表記でした。
お詫びして訂正させていただきます。

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。最近、読むナビさんでオススメ紹介を始めました。Twitterアカウントは@frog88

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