「パンツは布であり、同時に下着である」を理解できない不器用な男のバカバカしいかわいさ——「夜の須田課長」(クマザワミキコ)


家族とセックスするというのは難しい。現実問題としてできるかできないかというのは、嫁や子どもはおろか、彼女もいない僕には踏み込めない問題なのだけれども、少なくとも物語、理念モデルとしての恋愛、もしくはセックスというものは、家族とは相性が悪い。

恋愛と、その象徴としてのセックスというのは、非日常性の産物だ。日常を覆すからこそ高揚感や特別感もあるし、人はその唯一無二性を信じられる。

それはたとえば、「パンツは布だ」という話に近い。布であるという点でいえば、上着だろうがTシャツだろうがパンツだろうが大差はないし、布に興奮する人間は(一般的には)いない。であるにもかかわらず、パンツに興奮する人間はたくさんいる。パンツと布の間には深くて冷たい川が流れている。その川こそが日常性なのだ。パンツは日常では隠されているからこそ、非日常を運んでくる象徴として機能している。

一方、家族というのは日常性の象徴だ。生活のベースであり、家族を前にして常に非日常的な緊張感を強いられるとしたら、それは不幸な出来事だろう。いってみれば、家族のパンツは布なのだ。むしろ布以上の何かであると、生活に支障をきたしてしまう。「ある日突然女の子と一つ屋根の下に……」みたいなラブコメが、現実の生活として考えると苦労やコストが大きすぎるのと同じだ。

家族的な日常性と、恋愛やセクシャリティと結びついた非日常性。この2つを時と場合に合わせて使い分けられればいいのだけれど、こと男性に関してはそれをうまくスイッチさせることができないことがある。覆水は盆に返らず、いったん布になったパンツは、二度とパンツには戻らなかったりする。「布であり、時と場合によってパンツである」という高度な認識を男に求めるのは間違いなのだ。

「夜の須田課長」(クマザワミキコ)は、いわばそういうジレンマに揺れるバカな男たちを描いた作品集だ。

本作には、表題作のほかに、エロいことで頭がいっぱいのかわいい男子高生が主役の「浅岡くんのえす」、思春期の子どもを持つ、家庭に居場所のない父親の物語「ちか子ちゃんの父」などが収録されている。思春期から中年男性までさまざまな男性が登場するので、ひと口に語りにくい面もあるが、共通するのは男たちのバカっぽいという点だ。それは子どもっぽさといいかえてもいい。

たとえば、「夜の須田課長」では、職場でも家でも「大人らしい振る舞い」を続けることに疲れた須田課長が、何もかもイヤになって子ども返りしたような振る舞いを始めてしまう物語が描かれている。おかげで妻に対してはすっかりインポになってしまっているし、「一度やってみたかった」という理由で、パンツ一丁で深夜の町を自転車で走り出したりするほどに本人は追い詰められてしまっている。それで起こした行動がパンイチで散歩というあたりが、バカバカしくていいのだけど、実際にやったらもちろん捕まるわけで。

須田課長は、本質的には「大人らしく振る舞う子ども」であり、バカ男子だ。で、バカ男子だったらバカ男子らしく、パンツやらおっぱいやらを見た瞬間に、条件反射的に勃起すればそれほど問題もないのだけれど、そうもいかないのがややこしいところで、彼は大人である自分と、バカ男子である自分を両立することができず、どちらか片方でしかいられないのだ。

つまるところ、社会人として、夫として、正しくあろうとする(あるいはそう強いられる)結果、夜だけは切り換えて(バカみたいに)勃起するということができない不器用な人が須田課長なのだ。それはある意味では生真面目さといってもいいだろう。

クマザワミキコは、そういうバカで不器用な男たちを目一杯バカバカしく描くと同時に、かわいらしく表現している。そして、「しょうがない奴らだ」と腹を立てながら許す女たちを描いている。バカで不器用な男を救うのは、いつだって女たちなのだ。

それは、かっこよくてフワフワして甘ったるい匂いのする恋愛ではなく、日常にまみれた泥臭い家族愛のような関係だ。だけど、そのなかで“恋みたいなもの”を再発見するのがクマザワミキコの視線なのだ。そして、それはちっともオシャレではないけれど、かわいらしさと幸福感に満ちている。

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。インフルエンザにかかりました。Twitterアカウントは@frog88

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夜の須田課長|月刊COMICリュウ

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