魔法少女はなぜ“少女”なのか? その答えの先にある物語――「魔法使いの心友」(作画:香魚子/原作:柚木麻子)


由緒正しい少女マンガのモチーフである魔女ッ子・魔法少女だが、なぜ彼女たちがみな「少女」なのかということに関してはさまざまな議論がある。単純に「少女のための物語だから」ということもできるが、では、なぜ魔法少女は少女のための物語なのだろうか?

魔法少女が少女であり、少女のためのモチーフである理由のひとつは、それが全能感を拡張してくれる物語だからだ。ある日、“私だけが”選ばれ、魔法を使えるようになる。他者によって選ばれ、“この私”を特別な存在にしてくれるのが魔法少女の基本だ。それは、「私は特別である」という多くの子どもが通過する全能感の夢にマッチする。

そして、思春期とは全能感の挫折が訪れる時期でもある。友人関係や恋愛のなかで、無根拠な自信や万能感に別れを告げ、他者との関わり合いのなかで自己を確立していくというのが、思春期の基本的な自己形成プロセスだ。無根拠な全能感を与えてくれる“魔法少女”というギミックは、そこではうまく機能できない。だから、魔法少女たちは少女を卒業する頃、魔法も卒業していくのだ。

「魔法使いの心友」(作画:香魚子/原作:柚木麻子)は、こうしたモチーフを正しく踏まえた上で、あえて中学生という思春期の女の子を主人公にすえて、正面から魔女ッ子を描いている。

本作では、主人公は魔法少女ではない。人間の世界にプリンセスを探しにきた魔女を手助けすることになる、普通の中学2年生だ。定石でいえば、普通の中学2年生といっても、当然彼女は魔女に見出され、運命の子どもとして選ばれるのが普通の流れだ。

だが、「魔法使いの心友」はむしろその逆を描いている。心の清い女性の心にだけ咲くロータスを集める魔女・リサだが、その手伝いをすることになった主人公・そよは、「心の花がからからに干上がっている」と喝破される。人の目を恐れ、空気を読み、嫉妬や優越感に振り回されながら生きるそよは、別にとりわけ心が醜いわけではない。それは、思春期の普通でもある。全能感の時代を終え、他者との関係に萎縮し、新しい自己を見いだせず葛藤する、普通の少女の姿だ。

だが、そんな彼女にとって、美人で魔法を使えばなんでもできるリサは全能感の象徴でもある。“失われた輝かしい理想の私”といってもいい。相手が悪いわけではないが、リサといるとき、そよは自らの不完全さを突きつけられる。魔法少女という幸福で牧歌的なモチーフは、本作では思春期の痛みをめぐるテーマになっているのだ。

物語はまだまだ序盤で、結末は見えていない。だが、そよとリサの友情は、全能感を喪失した自己との和解というモチーフに必ずつながっていくだろう。主人公が魔法使いになるわけではなく、その友人であるというポジションを取った本作は、いわば魔法少女を卒業した世代のための魔女ッ子マンガなのだ。

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。プロフィールの文言に悩むたびに、ライターとしての自分のキャリアに不安を感じます。Twitterアカウントは@frog88

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魔法使いの心友 作画:香魚子 原作:柚木麻子

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