失われた“少女性”を蘇らせたのは男の娘だった――「ぼくらのへんたい」(ふみふみこ)


“少女性”をめぐる問題は、男性で問題になることはほとんどなかった。“少女性”なんだから当たり前だと思われるかもしれないが、ここで僕がいう“少女性”というのは、実のところ女性に限った話ではない。

セクシャリティから切り離された子ども時代から、自分が性的な存在であることを受け入れた大人になるまでの、セクシャルでありながらセクシャルでない状態を僕は“少女性”と呼んでいる。自己認識としてはまだセクシャリティを受け入れきっていないが、身体的にはすでにセクシャルな対象として他者から視線を投げられる、そういう状態だ。

それは男性でも起こりうるのだが、一般的に男の場合は性的な対象として晒されるよりも、セクシャルな視線の主体となることが圧倒的に多いためか、このモチーフは主に女性、少女をめぐる問題だったというわけだ。

少女マンガはかつて、そういう少女をめぐる問題をしばしばテーマとして扱っていたが、最近ではすっかりセクシャリティをめぐる葛藤を描いた作品を見ることが少なくなっていた。物語を見る限りの話ではあるが、おそらくいまや多くの少年・少女たちは、自分のセクシャリティに疑問を持ったり、受け入れるのに葛藤したりということは少なくなったのだろう。

そんな死にかけの少女性を救いあげたのが、ふみふみこだ。

「ぼくらのへんたい」(ふみふみこ)は、女装する中学生、いわゆる男の娘を描いている。純粋に女の子になりたい子、女の子になることを強いられている子、恋のために女の子になった子……彼ら(あるいは彼女ら)が女装する理由は三者三様だ。

だが、セクシャリティへの葛藤という部分は共通している。男性が男であることを受け入れたり、女性が女であることを受け入れるのとは話が違うのだから、当たり前かもしれない。だが、その鮮烈さは、女になりたいなんて少しも思ったことのない僕の胸を打つ。まるで我がことのように、強烈に。

「人は女に生まれない」とはボーボワールの有名な言葉だが、文字どおりの意味で女に生まれなかった彼らが、でありながら女になる。そこに生まれる葛藤は、切なく、妖しく、少女以上に“少女性”に満ちている。

マンガの世界で失われつつあった“少女性”を、ふみふみこは、「ぼくらのへんたい」は、今誰よりも鮮やかに描いている。

(このレビューは第1巻時点のものです)

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。何を買ったか自分でもわからなくなって、よくマンガを重複購入してしまう。最近だと「王国の子」(びっけ)をダブらせました。Twitterアカウントは@frog88

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