たぶん、今多くの女の人にとっての理想は、「女子」なんだと思う。なんだかんだと揶揄されることもある言葉だが、「女子力」「女子会」「○○女子」と、00年代後半以降の女性像、そのモデルケースにおいて「女子」という言葉の存在感は大きい。「女の子」ほど甘ったるくなく、「女性」ほど冷たい響きでもない、「女子」という言葉のさじ加減がちょうど良かったのだろう。
なんでそんな話をはじめたかというと、「ひばりの朝」(ヤマシタトモコ)が「女子」の対極の物語だからだ。
「人は女に生まれない」という話を別のレビューでもしたばかりだが、一方であたかも生まれながらにしてオンナであるようなタイプもいる。望むと望まざるとに関わらず、常にセクシャリティと一体となった何かとして見られてしまうような子だ。
「ひばりの朝」の中心となる手島日波里(てしま・ひばり)はまさにそういうタイプの少女だ。14歳にして、誰もが彼女にセクシャルな匂いを見出す。あるときは彼女に欲情する男が、あるときは彼女を快く思わない同級生が、そんな彼女について語りながら物語は進んでいく。
「白ムチ系のエッロいの」なんて形容される日波里は、これ以上なく女性的でありながら、どうしたって「女子」という言葉がそぐわない。本人の意識がどうであれ、彼女はオンナであることをすでに強いられている。そして、彼女をめぐる女性たちもまた、どこか「女子」という言葉が似合わない。
「女子力」という言葉は不思議で、それが何なのかいろんな見解が示されているが、僕が思うに「女子力」とは、女性らしくありながら、同時に「オンナ」でありすぎない力のことだ。セクシャリティから離れすぎてもダメだけれど、セクシャリティやオンナの業が強すぎても「女子」にはならない。その中間を付くバランスが、今の女性のひとつのモデルケースなのだと思う。
そんな誰も彼もが「女子」であろうとする時代に、ヤマシタトモコはオンナを描いている。日波里を含め、この物語に登場する女性たちは、たぶん「女子」になり損ねた女の子たちなのだ。
それは、男にとって恐ろしいものだ。だけど、そこにはかわいらしくパッケージングされた「女子」たちの物語では描けない、孤独や痛みがある。
帯の派手な煽り文句なんて普段は7割引で見ているけれど、「[HER]を超える怪作、誕生」というこの作品の帯の言葉は、偽りじゃないかもなと思っている。
(このレビューは第1巻時点のものです)
記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。実家のある長野県諏訪市が最近「すわひめ」って萌えキャラ作ってて驚きました。しかも、意外とかわいい。Twitterアカウントは@frog88。
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