心を持ったロボットがヒューマニズムを発露するというモチーフは、日本のロボットSFにおける王道中の王道だ。業田良家は、「ゴーダ哲学堂 空気人形」などの諸作品でこのモチーフを執拗に描いており、本作「機械仕掛けの愛」もその流れにあたる。
ある意味ではすでにレトロなテーマであり、言葉で説明するといまや陳腐にすら見える。だが、作品は陳腐ではない。
業田作品におけるロボットたちは、みなその語源そのままに「労働」のために生まれ、子どもの代わり、介護、家事などに従事している。そして、機械であるがゆえに、役割を終えればリース機器として回収され、やがては廃棄される運命だ。そんな彼ら、彼女らがまるで人間のように何かに執着したり、信念に殉じようとするところにヒューマニズムが生まれる。
だけど、「機械仕掛けの愛」をはじめとする業田ロボット作品が胸を打ち、私たちを震えさせるのは、たぶんそんな単純なお涙ちょうだいの話だからではない。人間よりもロボットたちのほうが人間らしいという描かれ方をしているわけでもない。
業田作品におけるロボットたちは、たぶん私たち自身でもあるのだ。
生きるために働く私たちは、より効率的に利益を上げ、より正確にビジネスが動くためのシステムに少しずつ組み込まれている。もちろん人間の機微を理解できず、創造性も持たない機械では、人間の代わりにはなれない。
だけど、同時にシステムはもっとも非情な機械であり、ヒューマニズムからもっとも遠い存在だ。誰がやろうとエラーが出ない、代替可能な労働者を想定して作られており、ときとしてそこで働く人々はパーツのようにとらえられる。それは正しいシステムのあり方であり、基本的には悪意を持って作られているわけではない。でも、人はしばしばそんなシステムに翻弄される。
「私たちに似たロボット」と「ロボットに似た私たち」、そのふたつを「機械仕掛けの愛」は描いている。だから、レトロのように見えて、今の私たちにとって面白いものになっているのだ。
(このレビューは第1巻時点のものです)
記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。この時期になると毎年スピッツの「夏が終わる」を聞きます。仕事のご相談とか承っていますので、お問い合わせかTwitterでお気軽にどうぞ。Twitterアカウントは@frog88。
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