「春はあけぼの……」という一節は、日本でもっとも有名な文章のひとつだろう。この一節だけならまるまる暗記しているなんて人もいるはずだ。
「春はあけぼの 月もなう 空もなお」(サメマチオ)は、そんな枕草子の超訳版だ。枕草子の一節を取り上げ、現代の風景に置き換えてつづっている。
たとえば、冒頭にも掲げた「春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは」という一節には、間違って目覚まし時計を早くかけ過ぎた女性の生活が当てられている。「夏は夜……」には自宅でひとり開ける缶ビールとおつまみ、蚊取り線香の風景。秋、冬もそれぞれ現代日本の風景を当てはめている。
枕草子を読んでいるというよりは、日本の、特に20代くらいの歳時記をたどっている感覚で、何か突飛な出来事が起こることもない。だけど、ときどきそんな風景が不思議とグッとくる。
本作の“超”訳たるゆえんは、もちろん枕草子を現代劇として再構成している点にある。しかし、この「グッとくる」部分はたぶん真逆の視点から生まれている。
本家・枕草子はいわば普遍を描いている。普遍を目指そうとしたわけではないだろうが、結果として1000年を経てなお、僕らの生活はこうして枕草子と変わらぬ部分を持ち続けた。枕草子はきっと“うつろわぬもの”の随筆なのだ。
本作はそんな“うつろわぬ”枕草子を現代の風景に置き換えると同時に、実は“うつろいゆくもの”の物語になっている。一人の女性にスポットを当て、永遠のスタンダードのような日常を描きながら、過去へさかのぼったり、少しずつ季節を変えたりすることで、暗に永遠のような日常は、時とともに必ず去りゆくということを描いている。その記憶は普遍であり永遠でありながら、儚くうつろいゆく。ゆるゆるとした歳時記の終わり、読者はふとそのことに気付かされるのだ。
サメマチオによって“超”訳された枕草子には、うつろわぬ風景とうつろいゆく風景のふたつが同居している。枕草子でありながら、枕草子とは確実に異なる感情を揺さぶる物語なのだ。
(本作は1巻完結です)
記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。この時期になると毎年スピッツの「夏が終わる」を聞きます。仕事のご相談とか承っていますので、お問い合わせかTwitterでお気軽にどうぞ。Twitterアカウントは@frog88。
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宙(おおぞら)出版|春はあけぼの 月もなう 空もなお
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