11歳の夏、少年と少女が結ぶ、果たされない約束の美しさ——「神様がうそをつく。」(尾崎かおり)


どんなに天気がよくても、さすような日差しはなくなり、すっかり秋という感じになった。だけど、今年はこのタイミングでゆく夏を惜しむような作品に出会えた。「神様がうそをつく。」(尾崎かおり)だ。

夕暮れをバックに手をつなぐ、浴衣の少女とTシャツの少年というカバーのイメージそのままに、本作は少年少女の奇跡のようなひと夏の日々を描いた作品だ。年の初めに転校してきた少年・七尾なつるは、捨て猫を拾ったことをきっかけに、クラスメイトの少女・鈴村理生が弟と2人きりで暮らしていることを知ることになる。そして、夏休みのほんの数日間、なつると理生はともに暮らすことになる。

これだけでももう胸がウズウズしてくる。この憧れと冒険感が詰まった感じは、まさしく正しいジュブナイル。細田守に映像にして欲しいくらいだ。

だけど、「神様がうそをつく。」をとびきりのジュブナイルにしているのは、少年少女たちが少年少女らしさを謳歌しているからではない。むしろその逆だ。

大人のいない家で弟の面倒を見ながら暮らす理生は、必要以上にクールで大人びた少女だ。拾った猫を飼えないかと尋ねるなつるにも、いきなり「よういくひ」「払ってくれる? 月1000円」と表情も変えずに答える。

吉田秋生は「海街diary」の第1話でこんなセリフを描いている。

「子供であることを奪われた子供ほど哀しいものはありません」

理生はいわば、子どもであることを奪われた子どもだ。弟を守り、家を守り、自分を守らなくてはならない。その環境が、理生に子どもを卒業することを強いている。

この物語が美しいのは、理生が子どもであることをひととき取り戻す物語だからだ。秘密を共有するなつるとの暮らしの間だけ、理生は少女らしさを生きることができる。

そして、重要なのは物語の終わりだ。破綻が迫る現実を前に、なつると理生は最後の行動に出る。それはいかにも子どもらしい、現実味のない行動だ。

なつるたちの行動は、当然のように破綻する。なつるの母が最後に問いかける。

「今までずっと あの子を守っていたの?」

なつるが理生を守れたか否かは、物語の最後を読んでもらうしかない。だけど、ここで重要なのは、それが果たされたか果たされなかったかではない。

子どもたちは、決してできない約束をすることがある。簡単に「命かける」し、「絶対」と口にする。大人は気軽に約束をしない。約束したら果たさなければならないからだ。それは、約束の大事さを知っているということでもある。

だけど、果たされない約束にも意味はある。約束は、果たすためにあるけれど、たとえ果たされなくても、「私はそうしたいんだ」という気持ちは残る。

「神様がうそをつく。」は、ある意味では果たされない約束をめぐる物語だ。そして、できない約束をする、子どもたちの蛮勇さこそが、いつまでも心に夏の日差しのように輝き続けるのだ。

(本作は1巻完結です)

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。年間のマンガ購入量はだいたい1000冊ほど。あまり知られていなかったのですが、専門はラブコメ・恋愛マンガ全般です。Twitterアカウントは@frog88

関連リンク
神様がうそをつく。 / 尾崎かおり – アフタヌーン公式サイト – モアイ

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