死ななきゃ治らないものを少しだけ治してくれる、読む臨死体験——『死んで生き返りましたれぽ』


『死んで生き返りましたれぽ』の初版帯には「どんな形でもたっちゃんが生きててよかったと思うよ」という言葉が刷り込まれている。

■正しいこと、美しいことが人を救うとは限らない
実のことをいうと、僕は美辞麗句というものを信じない。正確にいえば「信じない」というよりも「どうしようもなく無力だ」と思っている。

美辞麗句というのは、たとえば「人生は美しい」とか「命は尊い」とかそういう言葉だ。それは、たぶんまぁ、正しい。正しいし、そういうものが正しいといえる世界でなければならないと思っている。だけど、一方で「そりゃそうだけど、それが何だっていうんだよ」とも思う。美辞麗句、世界の美しさ、命の輝き、そういうものを本当に必要とするのは、死にたいほどに追い詰められ、傷つき、疲れ果てた人だ。だから、人はそういう人間に「生きていることは素晴らしい」と必死に語りかける。そうしたくなる。

だけど、今まさに疲弊しきっている人にその言葉がどれほどの意味があるのか、と思う。そりゃそうだ。「人生は美しい」なんて信じられるほどの余裕があれば、人は死なない。そんな言葉を信じられない状況にあるから、疲弊し、擦り切れきっているのだ。正しさや美しさを受け入れるためには、それなりの健康さと体力がいる。

だから、『死んで生き返りましたれぽ』も、帯だけ読んだとき、その言葉にはたいした力はない。少なくとも、僕はそれを信じなかった。けれど、作中で同じ言葉に行き着いたとき、えぐられるような気持ちになった。

■「自分が死とどう向き合うか」ではなく、「他人が自分の死とどう向き合うか」を描く世界
『死んで生き返りましたれぽ』は、正確には死にかけの状態から生還を果たしたあるマンガ家のドキュメントエッセイだ。具体的には、自宅で倒れて心肺停止、糖尿病から敗血症、急性腎不全、脳浮腫などなど、病気について詳しくない人間が見ても、いろいろ併発しすぎていて危険なのがわかってしまう状況だ。実際、治療にあたった医療スタッフからは「奇跡の人」と呼ばれているという。

けれど、この話はやはり病気と闘った闘病記ではなく、“死んで生き返った”話だ。

倒れて目覚めた瞬間から始まるこの物語は、冒頭ほとんど絵というより記号的な図柄の羅列のような構成で進められる。自画像は荒っぽい線で描かれた目のみ。話しかける人は誰かもわからない虚ろなシルエット。「脳が壊れてしまった」と表現される、意識や認識が虚ろで混濁している状況を、一人称視点に近い形で再現している。突然話に放り込まれた読者は、自分が何者なのか、何が起こっているのかわからなかった作者の状況を追体験するように追うことになる。そして、断片的な会話などから、徐々に何が起こって、今どうなっているのかを知っていく。重篤であること、そして、自分を省みない生活のなかで体だけでなく精神もすり減らしていたこと。

その後、回復へ向かった作者のリハビリの様子なども描かれるのだが、この作品はそういう具体的な闘病の描写に焦点を当ててはいない。ここに描かれているのは、倒れて認識すら混濁し、何もできなくなった状況で、「周囲がどう反応し、何を語っているか」だ。

認識することも、喋ることも、動くこともままならないその状況は、まさに「死んでいる」のに近く、そして同時に回復の様子は「赤ん坊の成長」のようだ。その意味で、この作品は「闘病」ではなく「生まれ直し」の物語と言っていい。

そんな状況の中で、冒頭の帯の言葉が出てくる。これは作者の妹が発したものだが、この言葉が出てくる直前、その妹が家族にこんなことを話すシーンが描かれる。

「…これから」
「たっちゃんが回復しなかった時のことを考えよう」

本人の意識が混濁の真っ最中で回復の見通しも立たず、家族も疲れ果てているなかでのことだ。妹は「どんな人にも」「生きる道はあるんだから」と続ける。冷静で意思に満ちた、抑制された言葉だ。理性的で、ある意味では淡々としたそんな言葉が投げかけられたあとで、妹の独白のシーンが続く。周囲が不規則で不安定な仕事のために命を削ったことを責めるなかで、妹はそんな生き方を「間違ってんだと思う」と言いながら、自分で選んだ生き方なら「それはそれでいいと思う」と話す。そして、帯の言葉だ。

「今はまだみんな」
「色々混乱してるけどさ」
「私はねー どんな形でも たっちゃんが生きててよかったと思うよ」

そこまで淡々と語っていた妹は、この言葉で涙を流す。

文字にすれば、それはやっぱり美辞麗句だ。だけど、この言葉が響くのは、説得するわけでも、もはや語りかけるでもない、ほとんど独り言に近い言葉だからだ。ただあふれるように、そこにそういう想いがあることを知らされるからだ。

もしも今、精神をすり減らし、自分が疲れ切っていることにすら気づけないほど消耗している人がいたとして、この文章を読んでどれくらい響くのかはわからない。やっぱり「うるせーバカ」と思うのかもしれない。それはもしかしたら、もはや一度死ななければ治らない病なのかもしれないとも思う。

だけど、『死んで生き返りましたれぽ』は作者と一緒に、読み手を少しだけ生まれ直させてくれる。読むことで少しだけ死んで、生まれ直して、そういう「死ななければ治らない、気づけない何か」をわずかだけれど治してくれる力を持っている。

そこで語られるのは、当てにならない美辞麗句で表現するなら「生きることへの祝福」なんだと思う。

(本作は1巻完結作品です)

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。年間のマンガ購入量はだいたい1000冊ほど。特に好きなのはラブコメです。Twitterアカウントは@frog88

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「村上竹尾」のプロフィール [pixiv](作者pixivページ)

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