「後付けの設定」というのは、通常物語にとってよろしくないことのひとつだ。ご都合主義的にコロコロ変わる世界観は、たいてい整合性を欠きはじめるし、読者の物語への信頼度を下げる。設計図のない建設物みたいなもので、多くの場合うまくいかない。
だけど、かつての九龍城のように、まれにデタラメに建て増しを繰り返した世界が、設計図がきちんと作られたものには決して生み出せない魅力を持ち始めることがある。「アキタランド・ゴシック」(器械)の世界は、そういうタイプのセンス・オブ・ワンダーを持っている。
「アキタランド・ゴシック」は、おおむね毎回1つのエピソードを中心に描かれる連作形式の4コママンガだ。4コマという形式を取っているが、アキタランドで起こる日常を綴るショートショートのような物語になっている。
4コマ自体の切れ味もいいのだが、やはり本作に独特の魅力を与えているのは、その世界観だろう。日本の地方都市のようでありながら、角の生えた女の子がいたり、当たり前のようにゾンビが登場したり、クリスマスや盆踊りが微妙に僕らが知っている風習と違ったものになっていたりと、不思議な世界になっている。
もちろん、現実にはない不思議な世界というのは、フィクションならではの想像力であり、人気の舞台設定だ。だが、アキタランドの魅力は、ただ不思議なことではない。アキタランドは、理路整然とした「異世界」ではなく、いわば「何でも起こりうる空間」なのだ。
「アキタランド・ゴシック」は、毎回いろいろなことが起こる。それは、フリーマーケットの開催やグミ作りであったりもするし、サンタやUFOの襲来であったりもする。ときには、目覚めると自分自身が機械化していることだってある。アキタランドの世界観は、そのたびに建て増しされていく。具体的に文化が追加されるだけでなく、自分自身の機械化などは世界自体の伸縮性を拡張している。
本作にどの程度設定が詰められているかは知るよしもないが、あとがきで触れられているとおり、アキタランドにはある種の「ちゃらんぽらんさ」がある。が、そのちゃらんぽらんさは、世界を破綻させるのでなく、むしろ想像力を拡大していくための装置として機能しているのだ。
(このレビューは第1巻時点のものです)
記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。最近やたらと細麺のラーメンが食べたくなります。Twitterアカウントは@frog88。
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