デタッチからコミットへ、ふたつの鎌倉シリーズの和解——「海街diary」(吉田秋生)


「海街diary」は吉田秋生のターニングポイントだ。

吉田秋生という作家は、言うまでもなくすでに大作家だ。90年代には歴史的名作と呼ばれた「BANANA FISH」があり、その前後にも「河よりも長くゆるやかに」「櫻の園」「吉祥天女」「ラヴァーズ・キス」など、挙げていけばきりがないほどの名作を残している。そんな大ベテランの作品を今取り上げて「ターニングポイント」なんて言い出すのは、自分で書いていても何かちょっとおかしな感じがする。だが、キャリア30年を超えて描かれた本作は、明確にそれまでの作品群と違う輝きを持っている。

「海街diary」は、鎌倉に住むある3姉妹のもとに新たに妹が加わり、4姉妹となった家族の毎日を描くシリーズだ。同じく鎌倉が舞台となっていた「ラヴァーズ・キス」ともクロスオーバーする部分があり、同作の登場人物たちが(一種のファンサービス的に)顔を出す場面もある。そんなこともあり、吉田秋生の“鎌倉シリーズ”と称されることもある。

だが、「海街diary」と「ラヴァーズ・キス」は、舞台設定として交錯する一方で、作品としてのベクトルはある意味真逆になっている。というよりも、「海街diary」自体が、過去の吉田秋生作品とは明確に違う場所に立っているのだ。

吉田秋生という作家は、大人と子どもという線引きがあったときに、常に子どもの側に立って物語を描く人だった。「ラヴァーズ・キス」にしても「吉祥天女」にしても、登場人物たちには常にままならない親子関係や、家族の呪縛の影があり、子どもの不自由さといらだちが物語の通奏低音となっていた。また、女子校を舞台にした連作「櫻の園」では、今まさに大人になっていく少女たちのひとときを切り取っている。それは美しくもあり、同時に痛々しい喪失感に満ちていた。

吉田秋生の物語は、「大人は判ってくれない」という文脈の上で子どもと大人は対立軸になることが多かったし、大人になることはイノセンスの喪失の象徴でもあったのだ。だから、家族や親(あるいはそういう大人たちが支配する世界そのもの)からデタッチすることで、少年少女たちはイノセンスを守る必要があった。それが吉田秋生作品の基本構造といっていい。

これに対して、「海街diary」は大人たちの物語だ。4姉妹の末っ子となるすずが、物語のはじまりでは13歳と、吉田秋生作品のなかでもかなり若い部類に入るが、4姉妹の長女である香田幸は30歳直前だし、ほかの姉妹も20代、10代後半だが、もはや少女という雰囲気を持ってはおらず、大人もしくは若者として描かれている。

そして、本作のなかで苦悩するのは、少女であるすずではなく、彼女たち大人のほうであることが多い。ここでは、大人は子どもに立ちはだかる壁でなく、「年を取った子ども」のように描かれている。わからないことだらけだし、大人らしい振る舞いの裏でいつでも悩み、自分の決断に不安を抱えている。ある意味では自分の気持ちにまっすぐであろうとするすずたち少年少女のほうが、迷いやいらだちから自由に生きている。

家族の描かれかたも変わっている。過去の作品群では主人公たちを抑圧する悲劇の源泉として機能していた家族の問題は、「海街diary」でも離婚やろくでもない親といったモチーフとともに厄介さを抱えたものとして描かれているが、同時に本作ではその厄介さとの和解がテーマのひとつになっている。「ラヴァーズ・キス」から「海街diary」へというのは、家族や大人という世界へに対するデタッチからコミットへのスイッチといっていいだろう。

「海街diary」には老人から少年少女まで、実に幅広い年齢層のキャラクターが登場する。だが、そこではすでに大人/子どもという区切りはあまり機能していない。長い長い間、少年少女を導き続けてきた吉田秋生が、大人のために、大人が大人と和解するために描いた作品が「海街diary」なのだ。

(このレビューは第5巻時点のものです)

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。年末は「どうぶつの森」で過ごします。Twitterアカウントは@frog88

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