僕らはときどき「おっかない人」のことを懐かしく思い出すことがある。頑固オヤジや学校の先生、トラディショナルなヤクザの親分……。実際に知っている人かどうかとは無関係に、おっかない人は、どこか僕らを懐かしい気持ちにさせる。
だけど、同じ恐ろしい存在でも、僕らは無慈悲な独裁者や冷徹なマフィアを想像して懐かしい気持ちにはならない。「おっかない」というのは「怖い」とは違うのだ。
「アリスと蔵六」(今井哲也)は、超能力を持った一種の魔法少女・紗名と、そういうおっかない頑固オヤジ・蔵六の物語だ。
タイトルにも入っている「アリス」というフレーズが示すように、本作は「不思議の国のアリス」をモチーフとして取り込んでいる。というより、もっとハッキリと「逆転・不思議の国のアリス」という構造を取っている。
「不思議の国のアリス」=「Alice in Wonderland」は、文字どおりアリスが不思議の国に出かける物語だ。そこで読者は、子ども時代の空想のような気持ちを思い出すことができる。「不思議の国〜」は、子ども時代へと人を帰し、永遠を約束してくれる作品なのだ。
一方、「アリスと蔵六」は、真逆だ。不思議の国の住人であった紗名が、不思議の国から逃げ出し、僕たちの日常へとやってくる物語となっている。
ここで重要なのは、アリスと紗名が同じ不思議の国をめぐるキャラクターでありながら、アリスは冒険へ行き、帰ってくるキャラクターであるのに対して、紗名が帰るべき場所を持たないキャラクターであることだ。
不思議の国は、子どもの幸福な夢だ。だけど、同時に夢である以上、子どもたちは必ず帰る場所を持っている。紗名と「アリスと蔵六」における“ワンダーランド”の存在は、ファンタジックでありながら、まがまがしさや悲しさを抱えている。それは、どんなに幸福な夢でも、そこから目覚めて帰るべき場所がないためだ。
だから、この物語は「アリス」だけでなく「アリスと蔵六」の物語なのだ。
おっかない人が、僕らにある種の懐かしさを感じさせるのは、彼らが実は親に極めて近い役割を持っているからだ。
親の役割というのはおおざっぱにいって2つある。ひとつは帰る場所を与えること。それは物理的に帰る家であり、傷つき、何もかも失ったときによりどころとするべきものという意味だ。
そして、もうひとつは倫理を与えることだ。世界には「正しさ」はたくさんある。論理的な正しさもあれば、社会が要請する正義もある。だけど、親が最初に与えるのは「自分のなかにある、他者に干渉されない正しさ=倫理」だ。ほかの誰かと違っても、自分のなかで正しいと思う、そういう最初の基準を与えるのが親の役割なのだ。
おっかない人というのは、そういう倫理を抱えた人たちだ。自分の理屈がちっとも通じない、だけど、彼らのなかに確実に存在する(ある種理不尽ですらある)倫理が、彼らを「怖い人」でなく「おっかない人」にしている。
帯で「日本の正しい頑固爺」と表現される蔵六は、そういう「おっかない人」だ。だから、僕らは、物語の冒頭、新宿に突然現れた紗名が、出会ったばかりの蔵六を巻き込み、同じ超能力少女たちと激しいバトルを始めたとき、問答無用で彼女たちに鉄拳を食らわす蔵六の姿にしびれるのだ。それは、ファンタジーのロジックに、現実社会の論理が持ち込まれる瞬間であり、子どもの理屈に大人のゲンコツが下される瞬間でもある。
「ドラえもん」(藤子・F・不二雄)に「パパもあまえんぼ」という有名なエピソードがある。のび太の父が、タイムマシンで亡くなった母に再会する(本人は夢だと思っているが)お話だ。子どものように大泣きするのび太の父親の姿を見たドラえもんが「おとなって、かわいそうだね」と語る。「自分より大きなものがいないもの。よりかかってあまえたりしかってくれる人がいないんだもの」と。
「アリスと蔵六」は、「不思議の国のアリス」とは真逆に子ども時代の終わりをもたらす物語であるにもかかわらず、どこかで懐かしく、読み手を子ども時代へと戻してくれる物語になっている。それは、「おっかない人」である蔵六が、「自分よりも大きなもの」を思い出させてくれるからだ。
だから、この物語は幸福と懐かしさ、そして少しだけ切ない気持ちを思い出させてくれるのだ。
(このレビューは第1巻時点のものです)
記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。2012年の年間マンガ購入数が1000冊を超えてました。読むナビさんでオススメ紹介を始めてます。Twitterアカウントは@frog88。
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アリスと蔵六|月刊COMICリュウ
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