32歳、このところ年を取ったなと痛感することがある。もちろん大人としてはまだまだひよっこという年齢で、老人ぶるような年ではない。だけど、そういうのとは無関係に、だんだん昔のことを忘れはじめている自分がいる。
昔のことっていうのは単純に過去の思い出のことではない。若い頃の出来事はそうそう忘れないものだ。だけど、感情はどんどん色あせていく。
思春期の頃、つらいことや悲しかったことがむやみやたらとたくさんあった。いまだもって、世界の終わりみたいに思い詰めてた当時が、たぶん一番いろんなことを悲しがってたし、大変だったなと思うけれど、一方で、なんであんなに大仰に悩んでたんだろうと笑ってしまう自分もいる。そうやって、年を取って恥ずかしい笑い話になったことは、自分にとって喜ばしいことではあるのだけど、同時にもうあの頃の痛みを自分のこととして語ることはできないんだという悲しさもある。人は忘れる生き物だというけれど、ある種の生々しい感情は本当に「そこにあった」という記憶だけを残して消えていってしまう。
「屋上の君」(瀬川藤子)は、そんな“あの頃の痛み”をすくい上げている物語だ。
転校してきた学校で孤立した小学生・春菜が屋上でひとりの不思議な少女に出会う。小学校の屋上なのに、セーラー服を着た少女・かなえ。春菜はあっという間に彼女と友だちになる。そして、彼女が何者なのかを探るように物語は進んでいくことになる。
彼女が一体何者なのかについては、もちろんここでは書かない。この謎をめぐる部分だけでも非常に良くできていて、何度も予想を裏切られた。
だが、「屋上の君」が心を打つのは、春菜の生々しい叫びだ。
かなえの正体を探る過程で、春菜は大人とぶつかることになる。大人たちは正体不明の少女と関わろうとする春菜をさとし、いさめる。そういう大人たちはすごく正しい。理路整然としているし、実は春菜を守り、育てようとする気持ちに裏打ちされている。物語としても、大人たちの判断を適正なものとして描いている。
その一方で、瀬川は春菜の感情を描く。正しいかどうか、適正かどうかと無関係に、目の前にある「友だちを助けたい」という生々しい感情をすくい上げている。
春菜の感情は、いってみれば“子どもっぽい”思慮に欠けたものだ。大人たちの理路整然としていて、正しい結果へと導こうと考えられた判断と比べれば、危うくてもろい。
だけど、それは結果論だ。
僕らは、子どもの頃の痛みを忘れてしまう。結果として全てが恥ずかしい笑い話になることを知った上で、いろいろなことを判断してしまう。だけど、あの頃の僕らにとって、最終的に正しいことなんて何の意味もなかった。目の前にある痛み、悲しみ、理不尽は、未来の正しさと無関係にそこにある。そこではいつか来る“結果”は、何も救ってはくれない。
瀬川は、「屋上の君」をとおして、大人の正しさをきちんと“正しいもの”として描いている。でも、同時に少年少女の目の前の痛みを、“正しさ”とは無関係に確かにそこに存在するものとして描き、許し、癒そうとしている。
僕はもう、春菜のようにかなえのために叫ぶことはできない。だけど、「屋上の君」は、無性に悲しいことを抱えていた頃の僕を、確かに少しだけ救ってくれた。
(本作は1巻完結です)
記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。2012年はだいたい1000冊ちょっとマンガを買ってました。Twitterアカウントは@frog88。
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