24歳、宮大工見習い。先送りし続けたコンプレックスに光を当てる“遅れてきた青春譚”――「かみのすまうところ。」(有永イネ)


大人はしばしば子どもに対して「何にでもなれる」と教える。子どもにはあらゆる可能性があることを、希望として語る言葉だ。しかし、「何にでもなれる」ことは、残酷でもある。“何にでもなれる人”は、年を重ねるとともに“何者なのかわからない人”になるからだ。

高校や大学は、専門課程があるとはいえ、事実上そのほとんどが将来の可能性を保留し続ける場所だ。うっかりしていると、「何にでもなれる」がゆえに、何を選んでいいのかわからなくなる。何を選んでいいのかわからない人は、自分がいったい何を積み上げてきたのか、自信を失う。それはともすれば就職活動期だけでなく、働き始めてからも感じる不安かもしれない。いつでも自分の代わりがいるような、自分でなくてもよさそうな……働き、生きながらそういう不安を感じる人は少なくないだろう。“何にでもなれる”まま成長することは希望であるというよりも、自分に使命や成長を見いだせないという苦悩なのだ。

宮大工という職人の世界を描く「かみのすまうところ。」(有永イネ)には、何者でもないまま成長した青年の苦悩が見え隠れしている。

物語は、宮大工の棟梁の孫でありながら高所恐怖症であることを隠し、大工を諦めていた24歳のみつきが不思議な少女と出会い、宮大工修行を始めるところから始まる。ユーモアを散りばめた作風と、みつきの脳天気そうに見えるキャラクターもあって、宮大工の生活は明るく楽しげに描かれている。だが、みつきも、その弟の光重朗も、その内側にコンプレックスを隠し持っている。みつきは、高所恐怖症によって、自分が宮大工という職業に“選ばれなかった子ども”であることに苦悩し続けている。

それは生まれ持った欠損へのコンプレックスだ。だが、「宮大工」への思いや劣等感に向き合わないまま成長したみつきの姿は、“将来の選択”を先送りし続けて成長してきた僕自身の胸を揺さぶる。

そういう自分自身への不安というテーマは、青春物語の定番であり、実際本作の帯にも「青春グラフィティ」と銘打たれている。24歳の彼が向き合うには、ちょっと遅いようにも思える。

だけど、その苦悩に遅れて向き合っているからこそ、本作は単なる爽やかな青春譚でなく、生々しい痛みを伴う物語になっている。そして、遅くとも痛みに向き合い、先へ踏み出す勇気をくれるのだ。

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。今年は取材でたくさんクリスマスイルミネーションを見ました。男2人で。Twitterアカウントは@frog88

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