「すこし・不思議」ならぬ「すこし・普通」という九井SFとグルメの相性——『ダンジョン飯』(九井諒子)


日本のマンガにおけるSFには「SF=すこし・不思議」という考え方がある。言わずと知れた藤子・F・不二雄の提唱した考え方で、おおざっぱにいえば「日常のなかに少しだけ不思議な(SF的)要素を入れ込むという物語のつくりだ。

わかりやすく『ドラえもん』でいえば、小学生のありふれた日常に、ドラえもんという架空の存在が放り込まれることで物語が生まれている。ベースとなるのび太たちの生活は(多少の時代とのギャップはありつつも)ごくごく普通のものだからこそ、スッとその世界に入っていける。

それでいうならば、九井諒子の『ダンジョン飯』は「SF=すこし・普通」だ。

『ダンジョン飯』は、その名のとおり、RPGのような世界のダンジョンでの食生活を描いた作品だ。主人公たちのパーティは、最奥部でドラゴンに食べられた仲間を救出するためにダンジョンへと潜るが、資金難のために食料が確保できず、ダンジョン内で自給自足を迫られる。パーティは戦士タイプに魔法使いなど、出てくるのはドラゴンやスライム、歩くキノコに動く鎧など、日本のRPGでもおなじみのモンスター。まさに舞台は王道ファンタジーだ。

だが、舞台の不思議さに対して、ここで描かれる生活はごくごく日常的なものだ。冒険のさなかでもお腹がすくから食べる必要がある。食べられればいいだけではなく、栄養バランスもある。食べるとなれば調理も必要になるし、モンスターの部位ごとの考察も生まれる。

たとえばスライム。なんとなく半液状の生命体くらいにとらえていたこのモンスターを、九井は「胃がひっくり返った状態で、消化液に内臓や脳などの器官が包まれた構造」ととらえる。ゆえに、外側を覆う消化液を柑橘類を加えた水でよく洗い、天日干しにするという食べ方を描く。

バジリスクについての描写も面白い。本作におけるバジリスクは、いわゆるコカトリス型の造形で、鶏と蛇が合体した姿をしている。一見すると鶏部分が大きいのだが、「蛇の王」と呼ばれるように、バジリスクは蛇だ。それについてはある意味では単純に魔物についての基礎知識にすぎない。だが、面白いのはその検証部分だ。『ダンジョン飯』では、「蛇部分と鶏部分を切り離した結果、鶏部分は死ぬが蛇部分は生き残ったので、本体は蛇である」という説をとなえる。

その検証自体はあとがきで「どこで切るかによっても結果が変わる」としているように、少々荒っぽい部分はあるのだが、いずれにせよ『ダンジョン飯』は徹底してモンスターを「ごく普通の生き物」として生物学的にとらえようとしている。過去の作品にも共通する特徴だが、この「普通さ」が九井のSF世界なのだ。

■「それほど美味しくなさそう」という魅力

九井のこうしたアプローチは、食というテーマと非常に相性がよかったと思う。

たとえば『ドラえもん』も食べ物を魅力的に描いている。『のび太の日本誕生』で出てきたダイコン状の植物を開けるとカレーやカツ丼が中に入っているという「畑のレストラン」など、食べてみたいと思った人も多いはずだ。中身は(おそらく)普通のカレーだが、「すこし・不思議」を加えることで非日常的な美味しそう感を生んでいるのがF的な食へのアプローチだ。

対する『ダンジョン飯』は、モンスターやファンタジー世界の植物を、ごく普通の生き物と描くことで、逆にリアルにその味を想像させる。ただ美味しいというだけでなく、食感や風味の描写を加えていく。だから、変な話だが、『ダンジョン飯』の食べ物の魅力は「そこまで美味しくなさそう」なところにあるといえる。過剰に美味しそうなわけではなく、適度にマズそうだったりするのが本作のグルメの奥深さなのだ。(余談だが、この「美味しさを描く・追求する」のを離れて、「リアルにほどほどの味っぽい」で楽しませるというのは、『山賊ダイアリー』(岡本健太郎)あたりが達した、食マンガとしてなかなか画期的な地平だ)

九井SFの結実ともいえる空想生物学×グルメという本作。とりあえず動く鎧をどう食べるかというところだけでも読む価値ありだ。

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。年間のマンガ購入量はだいたい1000冊ほど。特に好きなのはラブコメです。Twitterアカウントは@frog88

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