『姉の結婚』の岩谷ヨリは、アラフォーの独身で、本人も結婚をほとんど諦めているという主人公です。けれど、彼女の問題は現実的にモテないということではありません。ヨリの問題は、彼女の「私なんて……」という自己認識そのものです。
つまり、客観的には勝ち組であり、別に結婚だってしようと思えばできる。でも、ヨリはそういう客観的な事実と無関係に自己否定感を抱えているわけです。
おおざっぱにいうと、人はまず思春期前後に幼児的な全能感から脱却していきます。他者との衝突や挫折によって無根拠な自信を喪失するわけです。同時に、人間関係やら何やらで失敗や成功を繰り返し、改めて地に足の付いた自信(アイデンティティ)を獲得していくというのが、「正しい」成長プロセスなんですね。
ところが、ある種の人たちはこのアイデンティティ獲得プロセスで失敗したりする。ここでいう失敗は、「うまく失敗することに失敗する」といった方がいいでしょうか。ぶつかって盛大に赤っ恥をかいて、というのを繰り返すことで人はようやく「(おおむね)正しい自己像」と「それに基づく自信」を手に入れることができるわけですが、うっかりこの失敗を恐れてまごついていると、今度は無根拠な自己嫌悪だけを抱え続けることになってしまうんですね(もしくはずっと無根拠な全能感を持ち続けることになる)。
岩谷ヨリはこのパターンのキャラクターといえます。求められるがままに付き合ったりもするけれど、相手の気持ちが変わればそれっきり。我を通して激しくぶつかって状況や関係を打破するということができず、結果的に「捨てられた」という否定感だけを積み重ねてきてしまった。そして、何となく優等生で仕事もできる。「正しいこと」を「効率的」にすることはできるわけです。なぜなら、正しいことをするのには、自分の欲望と向き合う必要がないから。
そうやって育て上げられた自己否定感、コンプレックスに対して、「ダメじゃないよ」という客観的な事実を突きつけるのは、正しいことではあるけれど、処方箋としては無意味です。なぜなら、コンプレックス自体が無根拠だから。無根拠で論理的に破綻したコンプレックスは、論理的な何かによっては治らないわけです。まぁ、そもそもコンプレックスというもの自体が、多かれ少なかれそういう性質を持ったものですが。
西炯子作品は、そういう病理に対してファンタジーを与え直す機能を持っていると思うんですね。
前述の指摘のとおり、『姉の結婚』は古典的少女マンガであり、おとぎ話の類いです。それはファンタジーではあるけれども、同時にローティーンやハイティーンに夢を与える役割を持っているわけです。「あなたは自分の魅力に気づいていないだけだ」という夢。「あなたにだって白馬の王子さまはやってくる」という夢。それは甘美な快楽として無邪気な自己肯定感を加速させる装置(毒)であると同時に、挫折した自己肯定感をもう一度奮い立たせる機能(薬)も持っています。いってみれば、無根拠な自己否定を克服するために無根拠な自己肯定感を与えている。
『姉の結婚』は、このティーン向けの装置をあえて大人に提供しているわけです。10代の時に克服できず、肥大化してしまった病理に、もう一度ティーン的な夢を与え直すことで、その病理を乗り越えようとしている。
ここでもうひとつ重要なのは、西炯子作品がその病理を徹底的に描いていることです。自分がなぜ自信を持てないのか、何を恐れているのか。『姉の結婚』はときに論理的に、ときに感情的に病理の源泉を描いているんですね。ここが共鳴のポイントになっている。
いうまでもなく、別に我々は岩谷ヨリみたいな(客観的)勝ち組ではないわけです。美貌も、能力も、社会的地位も別に持っちゃいない。けれど、抱える病理は同じなんです。逆にいえば、いい年した我々は、自分のコンプレックスに根拠がないなんてことにはうすうす気づいているんですね。自分の問題は、持ち物の問題ではない。欲望を、我を、他人にぶつける力、無防備なまでの勇気の問題なのだ、と。
それはある意味では一番都合の悪い真実なんです。巡り合わせだとか、生まれ持った何かだとか、そういうものに責任を押しつけられなくなるわけですから。「気持ちひとつなんだ」なんて気づきたくないわけです。けれど、岩谷ヨリの少女的な感傷、傷つきやすすぎる心の内にうっかり共鳴してしまった人は、その現実と向かい合わなければならなくなる。そうして、我々はまんまと「岩谷ヨリ」になるわけです。
繰り返しになりますが、西炯子作品はファンタジーです。少なくとも「現実そのもの」みたいな何かではないし、『姉の結婚』に関してはラストもものすごく都合のいい話です。だから、これをこのままトレースしようとすれば当然痛い目を見ます。白馬の王子さまが迎えに来たり、空から女の子が落ちてきたり、ディスプレイから美少女が出てきたりするのを待ち続けることが無意味以下の害悪であることを、我々は痛いほど知っているわけです。
けれど、ある意味ではデタラメなそのファンタジーは、処方箋としては非常に有効に機能してくれることがある。デタラメでもいいわけです。なぜならコンプレックス自体がデタラメの産物なのだから。原動力がなんであれ、デタラメなコンプレックスを克服できれば、その人は救われることができる。
西炯子作品というおとぎ話は、無根拠な自己肯定を与えることで、毒になって読者を殺すかもしれないけれど、同時に極めて治癒力の高い薬として機能する可能性も持っているというわけです。
記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。年間のマンガ購入量はだいたい1000冊ほど。特に好きなのはラブコメです。Twitterアカウントは@frog88。
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