「めでたしめでたし」を許さない冷徹さ——「きのう何食べた?」(よしながふみ)


よしながふみの作品には常に悲劇の匂いがしている。壮大な男女逆転時代劇である「大奥」にせよ、白血病を乗り越えて復学した高校生の青春を描く「フラワー・オブ・ライフ」にせよ、BL作品群にせよ、本人が選択できない何かを背負わされた人々を、よしながは描き続けている。

そういう作品群に比べると、「きのう何食べた?」は、おだやかな作品に見える。だが、よしなが作品のなかで、もっとも冷徹な作品を選べといわれたら、僕はこの作品を選ぶだろう。

「きのう何食べた?」は、食事をテーマにして、あるゲイカップルとその周辺の人々の日常を描く作品だ。エピソードによってはドラマらしいドラマがなく、誰かを待ちながら夕飯の支度をする様子が静かに描かれたり、特売品をめぐる苦悩で1話作られていたりと、ある意味ではすごく地味な物語になっている。

だが、一方でこの作品は不意打ちのように泣かせるエピソードが織り込まれる。発売されたばかりの7巻でいえば、主人公にあたる筧史朗が初めて恋人のケンジを実家に連れて行く第50話がそれに当たる。ゲイであることは知らされていても、実際に男の恋人を目の当たりにして緊張の色を隠せない両親と、やはりどう振る舞っていいかわからずぎこちないケンジと史朗。ギクシャクとしつつも、どこかユーモラスなエピソードだが、随所に史朗やケンジ、両親が抱え続けてきた思いがち散りばめられており、思わず涙がこぼれそうになる。

よしながが「シビアだ」と思うのは、こういうところだ。この第50話は、密やかな家族の、そして史朗とケンジの和解と癒やしのエピソードであり、いわば「めでたしめでたし」のエピソードといっていい。これをもって物語に幕が下りてもいいお話だ。

だが、「きのう何食べた?」は、そんなクライマックスといえるエピソードを何気なくポンと挟み込み、何事もなかったかのように次の話が続いていく。

「めでたしめでたし」は、物語にとって究極の幸福だ。「めでたしめでたし」で閉じられた物語は、全ての厄災が終わり、最後に提示された幸福が永続することを暗示している。だから、ある意味では、ここで終わることこそ「きのう何食べた?」の正しいハッピーエンドといえる。

しかし、物語は続く。幸福な瞬間があっても、人の生活はそこで終わらない。病めるときもあるし、不幸な瞬間もきっとその先にはある。筧たちのささやかな和解は、そういう日常のワンシーンにすぎず、彼らはこれからも「ゲイであることの難しさ」を抱えながら生き続けなくてはならない。それは決して単なる不幸ではない。だが、同時に「めでたしめでたし」で締めくくれるほど多幸感に満ちた出来事ではない。

ささやかであたたかいこの物語には、そういうよしながのある種の冷徹な突き放した視線があり、それがよりいっそう本作を美しく、かけがえのないものにしているのだ。

(このレビューは第7巻時点のものです)

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。年末は「どうぶつの森」で過ごします。Twitterアカウントは@frog88

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モーニング公式サイト – 『きのう何食べた?』作品情報

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