もう1か月ほど前になるけれど、西炯子先生の『姉の結婚』の8巻が発売され、完結を迎えましたね。(このサイトを見ているような人には今さら説明するまでもないとは思いますが)西先生は『娚の一生』以降、結果的にアラサー・アラフォーの恋愛の旗手という感じで呼ばれるようになっております。で、『姉の結婚』もその系譜の作品で、アラフォーの主人公・岩谷ヨリの恋と結婚を描いていますわけですね。
さて、そんな西炯子作品について、ついさっき大変的確な指摘をTwitterで見かけまして。そのまま引用してもいいんですが、いきなり素性も知れないライター風情の話の枕に引用されるのもイヤかもしれないので、ざっくり趣旨を書くと、西作品のファンタジー性についての指摘です。世界観や主人公を取り巻く背景は「大人」のそれでありながら、ストーリー自体は「本当の自分の魅力に気づいた白馬の王子さまが迎えに来てくれる」という古典少女マンガの世界である、と。(なお、ご本人が見ていて「何引用元示さず書いてんだ。ちゃんとリンク張れ」という場合は私までご一報ください。すみません、お手数おかけします)
この指摘は、おそらく特に『姉の結婚』を想定したものだと思うわけですが、僕も同意見です。もうちょっというなら、『娚の一生』のヒット以降ジャンルとして広がったアラサー・アラフォー女子マンガのいくつかは、同様の特徴を持っています。
もっとも顕著なのは『きょうは会社休みます。』(藤村真理)で、彼氏いない歴33年の主人公・花笑にいきなり年下のイケメン彼氏ができるところから始まって、他のイケメン男子に言い寄られつつ、恋を育むというストーリーラインになっています。『きょうは〜』の場合は、彼氏いない歴=年齢をコンプレックスというよりも、初々しさとして描いている部分があり、より「大人を主人公にした古典少女マンガ」という性格が強い作品だと思っています。いわば、アラサーのための美しいおとぎ話です。
『娚の一生』や『姉の結婚』にしろ、『今日は〜』にしろ、アラサー・アラフォーのヒロインを描きつつ、やはりドラマづくり的な要請から絵柄としては若々しく、美人(に少なくとも見える)に描かれているあたりでも、ある種のファンタジー性というのは透けて見えるわけです。ちなみに、余談ではありますが、こういった文脈があるなかで、今年出てきた『たそがれたかこ』(入江喜和)は主人公である45歳の女性を真っ正面から中年的なビジュアルで描いており、それだけでもアラフォーマンガの新境地といえる存在です。
さて、この西炯子作品にはファンタジー性、あるいはウソがある。ここまではひとつ確かなことであるとして、ここで取り上げたいのはそのファンタジー性が毒なのか、薬なのかという点なんですね。
前述のTweetでは、仕事ができて、社会的にもそれなりに成功していて、実は恋愛経験もあるのに「私なんて……」という自信のなさを抱える西作品の主人公に対して共鳴できないというような指摘がされています。
これもひとつの事実です。『姉の結婚』はその典型で、どう見たって岩谷ヨリは本来勝ち組なわけです。そこに鼻持ちならなさを感じる読者がいるのは当然のことです。ダメな人はもうスパッとダメだろう、と。
ただ、一方でそういう西作品に強く共鳴する読者もいるわけで、僕もそのひとりです。不思議といえば不思議な話で、本質的に勝ち組、持てる側の人間であるヨリに、実際「彼女いない歴=年齢」の僕がコミットする部分なんて本来はないはずで。そもそもこっちは男だし。言葉を選ばずに書くなら「年増向けのお花畑ファンタジーだろ」で終わっても全然おかしくないわけです。言葉を選んで欲しいですね。
ただ、西作品は物語としておとぎ話ではあるけれど、ある種の人にとってはそのおとぎ話性が非常に有効な処方箋として機能するんですね。
→NEXT Page:■無根拠な自己否定感に対する処方箋は何か?
No comments yet.
この記事にコメントする