“社会的青春”から“パーソナルな青春”へ――「ぼくらのフンカ祭」(真造圭伍)


「ぼくらのフンカ祭」(真造圭伍)の帯では「21世紀も青春と友情は健在だ!!」と高らかに宣言されている。そのとおり。真造圭伍は、青春物語の天才だ。これだけでレビューを終えてもいいんじゃないかとすら思う。

2人のボンクラ高校生が、冴えなくて、でも思いっきりバカな高校生活を送る。シンプルに説明すれば、「ぼくらのフンカ祭」はそんな物語だ。だが、そのボンクラさはかけがえがなく、愛おしい。そういう真造圭伍の輝かしさについては、本作と同時に発売された「台風の日 真造圭伍短編集」のレビューですでに書いているので、別作品ではあるが、そちらを参照してもらえばいいと思う。

さて、「健在だ」と宣言されているとおり、本作に描かれている青春像は、普遍的なものといっていいだろう。だが、一方でたぶん真造圭伍の青春は時代的であり、ちょっと新しい。今回はそういう、真造圭伍作品の実は新しい部分を探ってみようと思う。

青春劇の基本は、鬱屈とした現在への反発だ。くすぶっている若者が、くすぶった状況に反発して輝かしい何かになろうとするという構造だ。だから、ボンクラ系青春劇の舞台は、退屈な街である必要がある。主人公たちはそういう退屈な街を飛び出したり、変えたりしていく。普通はそうなる。

ところが、「ぼくらのフンカ祭」は逆だ。舞台となる退屈な田舎町は、ある日火山の噴火で一躍活気溢れる温泉街に生まれ変わる。しかも、主人公の富山はモテる。女子にキャーキャー言われるタイプだ。

気にくわない。いや、断じて私怨ではない。確かに僕はモテない青春時代を送ってきたし、今もビックリするほどモテないし、まぁぶっちゃけ8割くらいは私怨なんだけど、バカ男子の青春モノというのはそういう気にくわない奴が主人公じゃいけないのだ。「モテてー!!!」って海に叫ぶタイプじゃないといけない。何しろ思春期の男子の不満なんていうのは、女の子にチヤホヤされれば9割9分解消されるものだ。モテる奴が男性誌で青春語るなんてちゃんちゃらおかしいし、何発か殴らせてもらいたい所存だ。僕にはその権利があるはずだ。

何か話が脱線したが、ともあれボンクラ青春劇でモテる男が主人公っていうのは、伝統的にはあり得ない設定だ。だけど、富山はくすぶっている。実家を温泉に改装したり、その後の街を挙げての大騒ぎのきっかけやアイディアを提供したりと、大活躍を見せても、彼はなんだか鬱屈としたものを抱えた顔をしている。まるで僕らがかつてそうであったように。

もう一人の主人公である桜島は、富山とは真逆の伝統的なボンクラ青春劇の主人公だ。何をやってもうまくいかないし、モテない。だけど、物語の中心はあくまで富山であり続ける。そう、富山の方がより強くくすぶっているのだ。

「ぼくらのフンカ祭」には、輝かしい青春への渇望感がない。“輝かしい”というのはつまり、何かでかいことやって、女の子にモテて、ウハウハだっていうような、深夜のファミレスで語る夢のような典型的な成功だ。この作品では、すでにそういうアッパーな上昇志向そのものが“輝かしさ”として成立していない。

真造圭伍はあとがきで「友達にしか分からない言葉、思い出、そういうのを大事にしたい」と書いている。富山にとっての、真造圭伍にとっての輝かしさは、たぶんそういうパーソナルなものなのだ。社会や他人に認められることではなく、ただひたすら自分の内側にある楽しさ、美しさを探しすこと。特定の誰かとだけ分かち合える言葉や思い。そういうものが「ぼくらのフンカ祭」における輝かしさになっている。

そして、同時にそれは終わりを約束されている。

伝統的な青春劇の主人公たちは、物語の幕が閉じたあとも青春を生き続ける。彼らが40代、50代になったときのことを僕らは通常想像しない。想像させたとしても、まるで今と変わらずに過ごしているんじゃないかと思わせるのが、青春劇の主人公というものだ。

だが、富山たちはそうではない。たぶん、彼らは物語が終わったあと、ごく普通の社会人になり、結婚し、当たり前な父親になっていくだろう。そう予感させる。

富山は他人や社会の承認を意に介さない。それどころか、つまらないものとみなしている。だけど、同時につまらない社会や他人を変えようとは少しも思っていない。ただ、パーソナルな美しさを探し求め続けているだけだ。

だけど、大人になれば、社会の価値に合わせることが必要になる。たとえば、働くことは社会や他人が認める価値を提供することだ。社会を変えない富山は、最初からその仕組みの一部になることをおそらく覚悟している。いつか、もうすぐに自分が社会に組み込まれることを予感している。

だからこそ、そうなる前の最後の瞬間である彼らの青春はよりいっそう美しく、胸を打つ。もうすぐ終わる、だけど、俺とお前だけが知っている、そういう美しさが確かにある――それが「ぼくらのフンカ祭」の友情であり、青春なのだ。それは普遍的であり、そして同時にかつての青春劇よりほんの少し切ない匂いをさせている。

(本作は1巻完結です)

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。寝室のクーラーが壊れたので、寝るときは窓を開けていたんですが、おかげで寝室側のマンガが湿気にやられつつあります。Twitterアカウントは@frog88

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