自分のために生きることの痛み――「リーチマン」(米田達郎)


「リーチマン」(米田達郎)は、とても幸福な夫婦の物語だ。でも、同時にどこか不安で心許ない気持ちにさせる作品でもある。

本作の主人公は、デザイン会社を辞めてフィギュアの造形師を目指す32歳、ヨネダタツロウ。「目指している」ということは、まだ「なってはいない」ということで、造形師として働いているわけではない。何をしているかというと、造形師の新人賞に応募しながら、主夫として家事をこなしている。家計を支えるは1歳年上の妻だ。

主夫という生き方は、まだまだ一般的になったとまではいえないが、社会的にその存在が認知されるようにはなった。夫より妻の収入のほうが多いなんてことも珍しくない時代だ。どうしても女性の負担が大きくなる出産をどうするかという課題はあるものの、働く妻と主夫という家族形態は十分に可能だ。

実際、「リーチマン」で描かれるヨネダ夫婦の生活は、理想の夫婦像といってもいいくらい幸せを感じさせてくれる。妻のスリッパを作る夫、屋上で夫の髪を切る妻、休日に夫婦そろって麺からのうどん作り。虎髭でゴツい体型の夫が狭そうにキッチンに立つ姿もかわいらしい。誰に迷惑をかけているわけでもないし、妻が夫に不満を抱いているわけでもない。むしろ「頑張れ!」と叱咤激励してくれている。単に普通の夫婦と役割が逆なだけだ。

だけど、理屈の上で可能な本作の主夫生活は、どこかうしろめたさを抱えている。妻の同僚や友人の何気ない「甘やかしてる」という言葉もあるが、何より当のタツロウ自身がくすぶっている自分に不安を感じている。2人で納得して決めたことなのに。

将来の不安などはもちろんあるだろう。だけど、本質的にそこにあるのは、自分だけが自分のために生きているということのうしろめたさだ。

最終的に夫婦の目指す生活のためとはいえ、家計(夫)を支え、会社員として社会に参加している妻に対し、タツロウは今、自分の夢のために生きている。主夫として妻を支えているけれど、悩みに気を取られてフィギュア作りに集中できない日があっても、誰に迷惑がかかるわけではない。社会的に彼を縛るものは何もないのだ。

専業主夫として生きると決めてしまっていれば、自分が誰のために生き、何をなしているかハッキリするから、そんなモヤモヤもないかもしれない。だけど、目標があることが、かえって自分が何者なのか、不明瞭にしている。

「自分のために生きる」という考え方は一種正しい。「誰かのために生きている」と強く考えることは、自分だけでなく、その誰かにも圧力をかけ、結果的に全員を不幸にすることがある。だけど、自分のためだけに生きていると感じたとき、人は不安や辛さを覚える。主夫どころか独身の僕が、ふとタツロウに共感を覚えるのは、たぶんそんな部分なのだと思う。

(本レビューは第1巻時点のものです)

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。最近Twitterで「妖怪レンゲ舐め」と呼ばれるようになってしまいました。インターネット怖いです。Twitterアカウントは@frog88

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モーニング公式サイト – 『リーチマン』作品情報

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