中二病との向き合い方——「とげぬきハトちゃん」(久世番子)


中二病を語るとき、その人もまた中二病に立ち戻っている。そういうことが、実はある。

中二病はズレた自意識、未熟な自意識の発露だ。かっこよさや賢さ、センスのよさなど、とにかく何か優れた自分をアピールしようとする(そして失敗する)かっこ悪さが、中二病の赤面感だ。

だから、「中二病」という言葉はギャグと相性がいい。そもそもが中二病自体が、過剰にズレているわけだから、当然だ。過去の自分の振る舞いを思い出して真っ赤になりながら、僕らは中二病物語に苦笑する。

だけど、赤面するのはともかく、過去の自分やほかの誰かの中二病体験を過剰に笑う人は、やっぱり自意識に囚われている。「洋楽がかっこいいと思う中学生」と同じように、「中二病がかっこ悪いと思う人」になっているのだ。

中二病を扱う作品は、しばしばそういう痛々しさに直面してしまうことがある。自意識を笑う自意識が鼻について、なんだか笑えなくなってしまう。そんなケースだ。そういう物語や言葉に直面するたび、笑えない自意識とどうつき合っていくかについて改めて考えてしまう。

「とげぬきハトちゃん」(久世番子)は、そんな笑えない自意識との上手な向き合い方を見せてくれる。

「ひねもすハトちゃん」の続編に当たる本作は、中学2年生の女の子、ハトちゃんとその周囲の人々の生活を描いた作品だ。中二病作品というのとはちょっと違うけど、近くの文房具屋さんでやっているマンガ系イラストコンクールで勝手にライバルを見つけてみたり、英語の発音が飛び抜けていいことが逆に笑われる対象になったりという、恥ずかしくてしょっぱい中学生という時期をうまく切り取っている。

読んでいてもやっぱり自分の過去を思い出しては、ムズムズッとした気持ちになる。だけど、この作品が面白いのは、そのイケてなさを、久世番子が単なるギャグでなく、愛おしい作品として描いている点だ。

ハトちゃんは学校では確実に「イケてない」グループに入る子だ。イタい自意識だってもちろんある。だけど、「とげぬきハトちゃん」では、そんなハトちゃんや中学生たちの姿を笑う作品ではない。むしろ、彼女たちの姿に、周りの人間や大人が自分のことを省みるエピソードもある。

「ハトちゃんがイタくない」わけではない。ハトちゃんはやっぱりちょっとイタいのだ。だけど、中二を終えた僕たちも結局のところ、自意識から完全に自由でいられるわけではない。人はたぶん、死ぬまで何らかの自意識と向き合い続けなくてはならないのだろう。

「とげぬきハトちゃん」は、久世番子は、そういう人のイタさを許している。ハトちゃんという子のイタい感じをちゃんと描きながら、そのイタさを愛おしいものだと表現している。だから、中二病的テーマを存分に含んだ作品でありながら、読んだとき救われた気持ちになるのだ。

(本作は1巻完結です)

記事:小林聖
フリーライター。ネルヤ編集長。2012年の年間マンガ購入数が1000冊を超えてました。読むナビさんでオススメ紹介を始めてます。Twitterアカウントは@frog88

関連リンク
とげぬきハトちゃん|新書館:コミック&ノヴェル[ウェブマガジンウィングスサイト]

No comments yet.

この記事にコメントする

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)