東京という限界集落を生きる彼女たち——『東京タラレバ娘』(東村アキコ)


いわゆる女性マンガにおいて、独身アラサー/アラフォーというテーマはここ数年(といってももう5年以上の単位で)定番のひとつになっている。シリアスに現実を描き出そうとするものもあれば、コメディとして描くものもあるし、その年齢層向けに少女マンガ的な夢を与え直そうとするアプローチもある。作家でいえば、西炯子がいて、渡辺ペコがいて、今ど真ん中にはたぶん鳥飼茜がいる。鴨居まさねや入江喜和も大きな枠組みでは周辺にいる。

いずれにしても、「アラサー(以上)・独身」は今の女性向けマンガにおいてひとつの重要な視点になった。普遍的、とまではいえないだろうけれど、少なくとも10年近く、あるいはそれ以上にわたって、このテーマが現実社会で不安や痛みの源泉として存在し続けているのは間違いない。「女の子」の次のステップが伝統的に「妻」であり「母」であった社会で、「女の子」を卒業しつつ、妻でも母でもない女性が、自分の理想を託せるロールモデルを見つけられず、若さの縮小再生産にかけざるを得ないという苦悩が「アラサー・独身」というテーマの背景にあり、それは「女子」の定義拡大という現象に象徴されている。独身のまま行き着くべきロールモデルが発見されていないから、10代、20代の頃と同じように「女子」を延長して生きざるを得ない、というわけだ。

そういう苦悩を今一番残酷に突きつけているのが、『東京タラレバ娘』(東村アキコ)だ。「自分磨きをしていれば」「もっときれいになったら」「自分が好きになれる相手がいれば」、ちゃんと結婚して幸せになれる。そんな「タラレバ」を肴に女子会をやっているうちに33歳になった女性3人組を、世代共感ネタたっぷりの東村節で描いた本作は、情け容赦なく「だからダメなんだ」を突きつけてくる。かつて『モテキ』(久保ミツロウ)が読者の死体の山を築いたときのように、独身女性読者を無差別に殺戮し続けている。感想を見ると悲鳴を通り越して断末魔の嵐だ。

■東京にある小さな限界集落たち

『東京タラレバ娘』の切実さは、そういう“女子”の臨界点を描いているところだが、同時にもう一つの臨界点がそれをいっそう際立たせている。東京における限界集落化だ。

限界集落は過疎化と高齢化が進んで、共同体として機能不全を起こしている集落のことだ。おおむね65歳以上の人口が半数を超え、冠婚葬祭など含め共同体としての機能を内部で果たすのが困難になっている集落というような定義がされている。

いうまでもなく、東京は都市として見たとき限界集落の対極にある場所なのだけれども、個人やコミュニティを中心に見たとき、そこではあたかも限界集落のような状況が生まれる。葬儀場は山ほどあるし、火葬場だって選び放題だろうし、棺桶だって好きなだけ選べる。都市として人を葬送する機能は十分すぎるほどある。けれど、もしも地方出身者が親を亡くしている年齢になって結婚せず、死んだら、誰が葬儀場を選び、火葬場を選び、棺桶を選ぶだろうか。人を送る機能はあっても、その主体がいない。弔辞を読んでくれる人や葬儀に来てくれる人はいそうだけれど、喪主がいない。そこにあるのは都市としてではなく、個としての、あるいはコミュニティとしての限界集落だ。

地方出身者にとっての東京は自由の土地だ。地方共同体というのはおおざっぱにいえば「大きな中学校」で、そこでは「どこそこの誰」「誰それのセガレ」みたいなバックボーンが自分にいつまでもついてまわる。直接の知り合い同士ではなくても、「隣のクラスのやつらしい」みたいな「とりあえず同じ母体にいる人間」「知り合いの知り合いではあるはず」みたいな関係が担保されるし、同時にそこでのキャラクターは呪いのようについて回る。

そういう地方から見ると、東京は大学的だ。地縁が希薄な代わりに、地縁によって形作られる自分から解放される。そこでは誰それのセガレでも、どこそこの誰でもなくなれる。大学や会社、趣味の集まりに恋愛関係など、関係性のクラスタが無数に重なり合っていて、それぞれが独立したコミュニティのように振る舞う。だから、コミュニティを変えればまた新しいキャラクター、新しい自分を生きられる。少なくともそういう可能性を見いだせるところに、東京の自由さがあり、ある種の輝かしさがある。端的に言えば、「田舎のダサい私」をなかったことにできるのだ。

けれど、その代償として所属するコミュニティを喪失すれば、「私」は何者でもなくなる。だから、「東京」では人は何としてもコミュニティを手に入れなくてはという不安に晒される。

『東京タラレバ娘』の主人公である3人組がいるのは、たぶんそういう場所だ。仕事も今日明日いきなり困らない程度には回ってはいるし、ある意味では若い頃の夢を叶えている。愚痴や本音を交わせる友だちもいる。けれど、仕事の関係者は死に水を取ってくれるわけではない。特にこの3人はフリーの脚本家、ネイルサロン経営者、家族経営の飲み屋の一人娘と、大企業のように「共同体」と呼べるような大きなサイズの何かに所属していない。そして、独身同士の友人関係もいつの間にか3人というミニマムなコミュニティになっている。結婚した友だちだっているだろうけど、彼ら・彼女らは家庭こそがホームであり足場であって、友人関係そのものに足場を置く彼女たちとはすでに決定的に違う。3人という、誰か1人が抜ければ共同体と呼べなくなるサイズになっている彼女たちの「女子会」は、小さな限界集落だ。

もちろんここで書いたようなことは現実そのものではない。地方でも無縁仏として送られる人はいるだろうし、東京で孤独死しても、なんやかんやで誰かが葬送してくれたりもするだろう。だけれども、当事者が感じる不安はたぶん多くの場合、地方にいるときよりも東京にいるときの方が大きく感じられると思う。地方における「どこそこの誰」が実際には幻想に過ぎないとしても、すがるべき幻想の存在は人を支えうる。幻想すらない(ように感じられてしまう)「東京」での不安は、より人を苛みやすい。

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