少年誌ラブコメの論理を拒絶する河合作品の世界——『とめはねっ!鈴里高校書道部』(河合克敏)


 河合克敏という人は、僕にとってはちょっと変わった作家だ。いや、スポーツマンガとしては『帯をギュッとね!』も『モンキーターン』も十分王道の部類に入ると思うのだけれども、そうではなく、少年誌ラブコメの担い手としての河合克敏が、である。

 そもそもスポーツマンガである作品をラブコメとして読むのがどうなのかという話はあるのだが、基本的に僕にとってはいい感じの男女の話が出てきたら、それはまずラブコメだ。(『3年』時代はともかく)『ハイスクール!奇面組』(新沢基栄)はラブコメだし、『SLUMDUNK』(井上雄彦)は結局晴子さんとの決着つかないことにモヤモヤ感じたりする。ラブコメ脳というのはそういうものだ。

 で、河合克敏だ。河合克敏作品というのは、びっくりするほど恋愛関係があっさり提示される。『帯をギュッとね!』を最初に読んだとき、いきなり主人公に彼女がいるという設定に腰を抜かした。

 もちろん現実にはそういうことは普通にある。だけど、少年誌である。スポーツマンガである。基本的に少年誌という場所では彼女などというものはいないのがデフォルトだ。久米田康司いうところの「実にサンデー読者(男)の約8割が彼女なぞいないと答えているのだ!!」(『勝手に改蔵』より)というやつで、彼女などというものは普通の人間にはいないのだ。努力して努力して甲子園に行ったり、部活でいい成績残したり、東大行ったり、難聴直したりしないとできない。それが少年誌という世界だ。でなければ、8割の彼女のいない読者が感情移入できないし、彼女いない歴34年であるところの僕は少年誌が泣いて謝るまで殴り続けるのをやめないようにしなくてはならなくなる。

 「最初から彼女がいる」「たいしたくらいマックスでもないのに普通に彼女ができる」というのは、現実ではあっても、少年誌ではない。だから、『帯ギュッ!』において柔道で優勝とかせずに彼女がいるというのは、邪道中の邪道だ。ほとんど意味がわからないといっていい。

 河合克敏がなぜあえて邪道を選んだのか、長年僕にとっては不思議なことだった。もちろん実際には明確な理由などないのかもしれないし、編集サイドなど外部の意向ゆえかもしれない(こちらはちょっと考えにくいけれど)。ただ、『帯ギュッ!』の彼女が最初からいる設定に物語上の必然性があったとは読みづらいし、男女関係が比較的入り組んでいる『モンキーターン』にしても、最初から三角関係的な要素が組み込まれていたという感じはしない。素直に「柔道で勝って告白」でも十分盛り上がったんじゃないかという意味で、大いなる謎だった。

 だけど、『とめはねっ!鈴里高校書道部』のラストを読んで、自分のなかにあった違和感がスッと消えていった。以下、『とめはねっ!』の最終話までのネタバレを含めて解説していく。

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1件のコメント for 少年誌ラブコメの論理を拒絶する河合作品の世界——『とめはねっ!鈴里高校書道部』(河合克敏)

  • 安倍晋三はヒトラーの尻尾 より:

    いやこれただの童貞キモオタであるお前の僻みだろこれ´_ゝ`)普通に少年漫画だわ→「彼女いない歴34年であるところの僕は」「現実ではあっても、少年誌ではない。」しかもその根拠が「久米田康司」とか痛すぎ

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